D−蒼白き堕天使1 〜吸血鬼ハンター9 菊地秀行 [#改ページ] 目次 第一章 奇妙な道連れ 第二章 七人の刺客 第三章 牙竜の罠 第四章 タロスの武器庫 第五章 麗娘妖雲 第六章 辺境の手妻師 あとがき [#改ページ] 第一章 奇妙な道連れ    1  月光は公平なはずなのに、その道だけが青い蛇のように浮き上がって見えた。  周囲は闇であった。  葉擦れがせわしない。風が出ている。  道は街道であった。  昼間は比較的、人や馬車の往来が多いが、夜ともなれば、西部辺境名物の形態|変化《へんげ》人や、元素変換虫がうろつく怪奇王国と化す。  今夜もその領土を侵犯した不運な旅人がいるらしい。  五、六個の奇怪な影が、長身の人影を取り囲んだのは、街道の端に放置された定期乗り合い馬車の停車場前であった。  停車場には、万が一の用心にボルトを射ち出す火薬銃と|短槍《たんそう》、長剣が取り付けられていたが、人影はそれを手にする風もなく、緑色の燐光を放つ眼が、飢え切った視線を浴びせかけるままにしていた。  妖しい影どもがすぐ襲いかからぬのは、植えつけられた貴族の精神が放つ残忍性——死ぬまで脅えさせるためかと思われたが、そのとき、それをくつがえす闇の言葉が、 「どうした、来ぬか?」  と訊いた。  すると——待っていたのは、妖物ではなく、その人影なのか。 「では、来やすいようにしてやろう。——来い」  最後のひとことと同時に、別の光が闇を侵した。  たばしる|紅《くれない》のかがやき。  その刹那、左右から二つの影が跳躍した。ひとつは、元素変換虫であった。  オオカマキリに似た身体が、空中でみるみる硬質の変貌を遂げる。有機質から無機質——鋼へと。  月の光が地面から迸った。  いかなる攻撃も撥ね返すはずの肉体は、野菜屑のように分断され、油のようなものを撒き散らしながら、地に落ちた。  同時に反対側に着地した吸血蛾人間も、その羽根から黄金の燐粉を跳ねとばしつつ、縦に両断された。彼らの鎌のような爪と吸血チューブは、目標を捉えることさえできなかったのである。 「来い」  次の誘いに応じて、雷獣が六本の足を踏んばりながら、兜に似た頭部を天空へ向けた。  人影の身体を青白い稲妻が打った。空気はイオン化し、大地は白煙を噴いた。稲妻は幾度も人影を叩いた。  人影が右手を上げた。その手には、優雅なカーブを描く、黒刀が握られていた。この辺の旅人や戦闘士、武術者が手にするはずもない光沢を放つ剣は、持ち上げられた瞬間から天空へと直立するまで、稲妻を吸収しつづけた。  それが胸元に突きつけられても、雷獣には何が起きたのか理解の外であったろう。  稲妻は刀身にまつわり、その意志を読み取るかの如くに、切先から雷獣の顔面へと吸いこまれたのである。  怪物は痙攣した。自らの身体を使うに非ず、空中放電を駆使して相手を感電死させるこの怪物は、防電機能を有してはいなかったのである。  なおも青白い光を刀身に絡みつかせたまま、人影は一刀をふり上げ、ふり下ろした。腕はもう限界まで伸びていたはずなのに、雷獣の頭部を二つに裂いた刀身は、三〇センチも突き出ていた。 「あと二匹——来いといいたいが、用人が来たようだ。——行け」  人影がこう命じると、その場に硬直して運命を待ち受けていた生き残りは、低く呻くや、一目散に道の両側の闇へと消えた。|瞬間移送《T・ポート》でも使ったみたいな猛スピードであった。  ひとふりして刀身についた血潮をふるい落とすと、人影はゆっくりと後方をふり向いた。  北から走る街道の北側に、一組の騎馬の影が浮き出ていた。  月光は青いのに、馬上の主ばかりは、闇よりもさらに濃い闇色を身にまとっていた。  鍔広の|旅人帽《トラベラーズ・ハット》の下で、不思議な光を放つ双眸が人影を見つめている。  人影は足下の雷獣の死体をまたいで、前へ出た。  闇の一角に青い領土が出現した。——そんな感じだった。深い海の色のようなマントが、人影の首から下を覆っていたのである。その腰のあたりでぱちり[#「ぱちり」に傍点]と鳴ったのは、いま、刀身を鞘に収めたらしい。 「バラージュか?」  と馬上の黒い騎主は訊いた。 「その通り。さすがは当代一のハンター、時間に正確だな」  と言っても、時計か何かを見る風もなく、しかし、騎馬が現れたのは、まさしく、彼の指定時刻だったのである。 「ついでと言っては何だが、現れた瞬間、身が震えた。でなければ、あの二匹も逃さぬところであったが」  すると、馬上の主は、地上の使い手に寸前まで気配も覚らせず接近してきたらしい。 「おれがこの街道へ入ったときから、気配は察していたはずだ。——消したつもりだったが」  と黒い騎主は言った。  すると、地上の人影は、馬上の主の存在をとうに知りながら、嘘を——お世辞を言ったと見える。  どちらが正しいのか。 「用件をきこう」  と黒い影は言った。 「下りて来ないか? 旨い酒がある」  返事はない。  人影は別段、気を悪くした風もなく、 「では、言おう。私をクラウハウゼンの村まで送ってもらいたい」  ここから西へ二〇〇キロ——辺境の果てにある村である。果てといっても、その向こうには数千メートル級の山脈が峻厳とそびえ立つばかりだ。 「ひとりで行けぬ身でもあるまい」  と馬上の声は言った。 「それがそうもいかん」  と青い人影は答えた。  したたり落ちるような金髪と碧眼。凄まじい美貌の主であった。月光がそれに神秘さをつけ加え、周囲の万物をかすませてしまいそうだ。  ただひとり——馬上の騎主を除いて。 「その村には私の訪問を歓迎しないものがいる。近づけば、たちどころに迎撃してくるだろう。正直、ひとりでは自信がない。君の助けがいるのだ、Dよ」 「おれの同行を求める理由をきこう。腕に自信がないなどとは言わぬことだ」 「ひとつはもう、わかっているはずだ[#「ひとつはもう、わかっているはずだ」に傍点]。もうひとつは言えん。その村に待っている相手は貴族だ。それを|斃《たお》してもらいたい。——これで勘弁してくれたまえ」  Dは無言で奇妙な依頼主を見つめた。彼に貴族の抹殺を求めるのは、確かに筋が通っているが、理由を口外しないのはルール違反であった。先刻からDの態度はどこか不可思議であった。  彼は背を向けた。 「待ってくれ」  と青い影——バラージュが呼びかけた。 「肉親の恥をさらしたくはなかったが、仕方がない。——クラウハウゼンの貴族の名は、ヴラド・バラージュ。私の父親だ」  馬首が再び巡った。 「なぜ父を|誅《ちゅう》するのかは訊かないでもらいたい」  とバラージュは硬い声で言った。 「私は父を斃さねばならない。それだけが目的だ。余計な奴らを相手に力を削ぐわけにいかん。吸血鬼ハンターが貴族の依頼を受けるなど、前代未聞の話だろうが、曲げて頼む。——承諾してはくれまいか?」  沈黙があった。Dとはいえ、これは沈黙せざるを得まい。  吸血鬼が、まさに彼らを滅ぼすための存在に助力を依頼し、しかも、自ら狙う敵が肉親であろうとは!? 前代未聞も未聞だが、まさしく奇々怪々以外の何ものでもあるまい。  世にも美しい若者の脳裡を、どんな想いがかすめたか。  やがて—— 「よかろう」  とDは答えた。馬上から。青い影へ。 「感謝する」  と青い影は言った。 「私は城から出たことがあまりない。道中は君の指示にまかせたいと思うが」 「よかろう」 「ありがたい。で報酬は——」  バラージュの口にした金額は、常識をきっかり百倍越えたものであった。 「これは前金だ」  彼はマントの内側から小さな布袋を取り出してDへ放った。左手で受け止め、Dは中身も見ずに、 「よかろう」  と言った。  それは同量の黄金百倍の価値を持つ貴金属であった。 「では——おれといる間、人間の血を吸うことは許さん。万が一、その禁を破ったら、おれはその場でおまえを滅ぼす」 「承知した」  バラージュはきっぱりと言った。どこか、黒衣の主に似た声であった。 「で、正式な名を名乗らずにいるのも礼を失しよう。私は、西部辺境統制官ヴラドの息子バイロン・バラージュだ」    2  客観的にみれば、おかしな——どころか驚天動地の道行きにちがいない。  吸血鬼ハンターとともに旅する依頼人が、彼に|狩られ《ハンティング》るべき吸血貴族ときた。  もちろん、彼が活動できるのは、夜だけだ。これが、Dも知っている[#「Dも知っている」に傍点]と男爵が告げたひとつの理由[#「ひとつの理由」に傍点]である。昼のあいだ、彼は青い四頭立ての馬車に乗って移動した。妖物どもと戦ったときには、少し離れた森の奥に止めてあったものである。  四頭のサイボーグ馬には、Dに従えとの指示を吹きこんであるらしく、素直についてくる。  だが、誰が見ても、これは貴族の乗り物だ。昼間、道を行けば、通行人や旅人は眼を剥いて立ちすくむ。道から隠れる。中には武器を構える奴までいる。  しかも、先導しているらしい若者が、どう逆立ちしても人間には真似られっこない、天上の美貌の主ときている。  路傍の人々の頭脳に、ある考えが共通して閃くのは、この上なく当然といえた。  ——あれは貴族とその従者だ。  貴族の従者には生身の人間もいる。多くは、彼らの仲間に加わる寸前で吸血をストップされ、一種の催眠的服従状態に陥った連中だが、中には正気でありながら心底からの忠誠を誓った——いわば“裏切り者”もいる。Dはそう見えたであろう。しかしながら、そう考える人々の表情に困惑の翳がゆれるのは、やはり、Dの美貌のゆえであった。  普通なら、昼間は人目につかない裏街道を通って、夜、街道をゆく。いや、昼間は森の奥かどこかで眠り、夜のみ行動する。貴族の性癖に従うなら、その方が合理的だ。  だが、Dは昼ひなかから堂々と街道を進み、夜は足を止めた。 「なぜ、夜も行かん?」  こう男爵が訊いたのは、旅をはじめてから三日目の晩であった。 「急ぐ旅か?」 「いや」 「退屈か?」 「いや」  馬車の内部には、Dも知らぬ娯楽施設が備えつけられているにちがいない。貴族たちの最終科学力は、時間はともかく空間の秘密をほぼ手中に収めていた。 「なら、我慢しろ」 「リーダーは君だ。文句は言わんが、お互いの肉体の条件を考慮すれば、夜進んだ方がロスが少ないのではないかね? 君も私を監視しやすいはずだ」  Dは旅人帽の鍔をそっと上げて、男爵を見た。さしもの吸血貴族が戦慄し、思わず引き込まれそうな瞳の色であった。 「監視して欲しいのか?」  と訊いた。  男爵の口元をうすい微笑がかすめたようだった。 「いや」 「断っておくが、おれがおまえを信頼しているなどとは考えないことだ」  Dは氷のような声でつけ加えた。 「おれの仕事の第一はおまえをクラウハウゼンの村まで送り届けることだ。そして、おまえのことを知っている敵ならば、必ず昼間を襲撃時間に選ぶ」 「なるほど、合理的だ」  と男爵は美しい笑いを浮かべた。美しいくせに、鬼気迫る笑みであった。 「君は私を信頼していないようだが、私は十全の信頼を置くよ、吸血鬼ハンター“D”に」  こう言ってから、 「だが——」  とつけ加えたとき、二人のいる森の北——街道の方から、これも馬車の|轍《わだち》らしい響きがやってきた。  その後を少し遅れて、エンジン音が追ってくる。複数だ。 「馬車を入れて五つ」  と男爵が言った。 「一キロ程先だ」  けたたましい馬車やエンジンの音とはいえ、これだけの距離を置いて聴き分ける貴族の耳であった。 「行かせてもらえるかな」  と言って、男爵はもう立ち上がっている。 「好きにしろ」  とDは応じた。  この辺に人家はないと承知の上の発言だろうが、貴族の能力を考えたら、無関心、無責任と言われても仕方があるまい。  男爵の青いマントが闇の中に消えると、Dは帽子を目深にかぶり、巨木の根元に上体を預けて眠りの姿勢をとった。  街道を疾駆しているのは、二頭立ての白い馬車であった。  ひとめで貴族のものと知れる優雅なつくり——その御者台で、若い男が必死に鞭をふるっている。  かといって、青白い能面のような無表情が、もう五〇メートルと離れていない後方からきこえるガソリン車のエンジン音にも、眉ひとすじ動かさないのは、立てておいた上衣の襟が風圧で倒れ、剥き出しになった首すじに残る二つのうじゃじゃけた傷痕——乱杭歯の痕のせいにちがいない。人間でも貴族でもなく、ただ、“貴族の口づけ”を与えた主人の言うがままに動く操り人形——ツェザーレであった。  宿場町を避けたはずが、裏道で遊び惚けていた粗野な若者たちに発見され、追跡される羽目に陥ったのを、その不活発な脳は悔やんでいるのだろうか。  そのとき、冷たい声が糸のように若者と車体とを結んだ。 「敵が来ます。何をしているの?」  轍の上げる雷鳴のごとき轟きの中で、それは耳もとでささやかれたかのように、若者の耳を圧した。 「私の腕ではこれ以上、速度を上げられません」  と彼はあわてた風もなく答える。 「後はお嬢さまでなくては——」 「召使いのそばで、私が手綱を取るとお思いですか?」  声は静かに言ったが、すぐに笑いを含んで、 「わかりました。おのきなさい」  否やもなしに、若者が右へずれると、馬車の天蓋がさっと開いて、純白の影が虚空へ広がった。月光が白銀の光沢を与えた。  人影が、いままで御者が占めていた位置へ移ると同時に、若者はのけぞった。うす皮一枚残してぶら下がった首の切り口へ、白い影——声からも明らかのように女だ——は片手をあてた。出血を封じたのである。即死した若者の方を金茶色の瞳が愛しげに見て、 「おまえさえいなければ、後は私がするしかあるまい。次の召使いを、さて、どこで調達するか。——ふむ」  その肩口がさっと波立つや、背後から銃声が響いた。追尾するひとりが火薬銃を射ったのである。  それを合図に幾つもの火花が車体のあちこちで散った。  だしぬけに、馬車が右へ傾いた。白い影が不意にそちらへ曲がれと手綱をふったのである。  馬は曲がったが、車体には無理が来た。  馬と車体とをつなぐ連結器のボルトが自動的に吹っとび、馬を解放する。  車体は横倒しになった。車輪が土煙を上げ、草原の草をちぎっては撒き散らした。大地をゆるがしながら、二転三転、もんどり打っておとなしくなった。  五秒と待たずに、四個のライトが街道から滑り寄ってきた。  馬車の五メートルほど手前でエンジンを切り、平べったいモーター・カーから降りたのは、思い思いの武器を手にした若者たちであった。モーター・カーといっても、加工しやすい木や軽合金の枠だけの本体に、タイヤやエンジンを装備しただけの、いわば、ゴーカートだ。どれも使いこんであるらしくエンジン部は油煙で真っ黒であった。 「死んだかな?」 「いやあ、相手は貴族だ。油断はできねえぜ」 「死なすよりは捕まえた方が、後で役に立つぜ。『都』の研究所へ持ってきゃ、高く売れるそうだ」  西部辺境は他に比して、滅亡後の貴族の暗躍が少なかった地帯である。代を重ねるうちに、その真の恐ろしさを肌では知らぬ者たちが増えても仕方がない。だが、いざ、向かい合ったとき、そんな台詞など、全く意味をなさないものになることを、若者たちは理解していなかった。  単純な金銭と名誉欲に駆られて、彼らは死の扉に近づいていった。  扉は開いた。  蝶番のきしみとともに、上を向いていた側のドアがゆっくりと半月を描いたのである。  そこから、白いかがやきみたいなものが浮き上がり、すっと馬車のかたわらへ降り立つと、黒髪をなびかせた白いドレスの娘と化した。  すっきりと細い柳眉、聖夜の闇のごとき|黒瞳《こくどう》、鼻すじと唇の精妙な美しさは、唇の皺のひとつひとつも網膜に灼きつくほど鮮明なのに、娘の全身は白い燐光に縁どられているのだった。いや、炎と言ってもいい。そこから噴きつける鬼気が、暴勇だけの若者たちをその場へ釘づけにした。  ひとりが長剣を片手に前へ出た。とびきり獰猛なリーダー格の若者であった。  たかが貴族、と思っても足が震えるのはどうしようもない。それをふり切るように、 「いやあ」  叫びを上げて突っこんだ。貴族の不死身性は父母からきかされている。心臓以外の場所を刺しても滅びはしないが、それなりの効果がある。腹を刺してひるんだ隙に捕まえてやろう——こう考えたのである。  女は身じろぎもせず、細い腹部に刀身を受けた。 「うわっ」  と若者はのめった。受けるも何も、肉体的抵抗は皆無のまま、長剣は鍔元まで娘の体内にめり込み、ついでに、彼自身もその身体をすっぽ抜けたのである。 「何をしているの?」  したたか鼻面を地べたへ激突させて、ふがふがと、それでも素早く起き上がりかけた若者の背へ、嘲罵としかきけない声が届いた。  愕然とふり向いた。  女の姿は忽然と消え、同じくふり向いた仲間たちの前方三メートルほどのところに立っていた。  その左手に、うす皮一枚でつないだ首を後ろへそっくり返らせた若者——御者を抱き、右手でもって首の切り口に蓋をしながら。 「て、てめえ!?」 「いらっしゃい。今度の私は本物よ」  頭上の月がしゃべったかと思われる澄み切った声である。その裏に塗布されたももの[#「もの」に傍点]に気づかず、リーダー以外の若者たちは火薬銃を肩づけした。  重々しい銃声と炎が夜気を撹乱した。許容量以上に装填した火薬のせいで、重いライフルが九〇度近く跳ね上がる。  着弾の衝撃で無惨に震えたのは、御者の死体であった。娘が楯にした、とわかっても、何となく自ら歩いて銃火の前に立ちふさがったようにも見え、若者たちは束の間、恐怖の風に吹かれて、引金を引く指を止めた。 「代わりが欲しいのです」  と姿なき娘の声が言った。首無し死体がしゃべったように。 「あなた方のうちひとり——後は無駄」  死体の首のあたりで、すっと白いすじが直立した。切り口をふさいでいた五指が離れたのである。  月光を跳ね返して燦爛と噴き上がったものがある。——と見る間に、それは空中で広がり、黒い紗膜のように若者たちの全身に吹きつけ、黒々と汚した。血だ。御者の血だ。この場合、ポンプ役の心臓は停止しているはずだと異議を唱えるよりも、首がちぎれかかりながらも心臓は動いていたと解すべきかどうか。  黒く染まった若者たちは、少しの間、茫然と立ちすくんでいたが、たちまち、断末魔の悲鳴を上げて倒れた。  彼らの身体に吹きつけられた血は、ただの血液ではなかった。娘の手が触れていた効果か、それはある種の薬液と変わり、人体内に入るや、本来の血液と化学反応を起こして、未知の猛毒に変貌したのである。  骨も肉も溶け爛れた。無事なのは、皮肉なことに最初に黒血を浴びた皮膚のみであった。  目鼻と手足のついたズダ袋のようになって崩れる仲間たちを、リーダーは茫然と眺めていた。 「いらっしゃい」  と娘は手招きした。用のなくなった御者の死体は足下に打ち捨てられている。  リーダーとして幸運だったのは、娘の手招きが、からかい半分——何の拘束力も含んでいなかったことだ。  逃れる手段は残されていた。彼は手の長剣を首に押しあてるや、女の眼光や声が届く前に、一気に頚動脈を引き切ってしまった。 「何ということを」  娘の声にはじめて憎悪と動揺がこもった。 「これで召使いが。——どこで探せばいいのかしら。いいえ、まだ、死に切っていないのなら」  いいアイデアを思いついたとばかりに、嬉々として、娘はうつ伏せのリーダーのもとへと走り寄った。死んでさえいなければ、“貴族の口づけ”をもって、生ける死者と化することは可能だ。彼女に必要な雑務など、簡単にこなせる。  握っていた長剣を軽々と放りだして、リーダーの首すじをひっ掴んで仰向けにする。  このとき、彼の近くに、折れた轍の軸が転がっているのに気がつかなかった。  リーダーはうっすらと眼を開いた。 「うれしいこと。これからよろしくお願いしますわね」  すっと彼の首すじに白い美貌が近づき、次の瞬間、 「ぎゃああああ」  身も世もない絶叫が、娘の口から迸ったのである。  無抵抗の半死人の血を吸う。——最後の最後に至って、その行為が彼女の油断を招いた。  白いドレスの胸のふくらみを呪うかのように、そのど真ん中に突き刺さったのは、轍を支える木製の軸であった。鋭い折れ口を見せるそれを、リーダーは絶命する最後の瞬間、最後の力をふりしぼって、娘の胸に打ちこんだのである。絶叫に満足したか、たちまち息絶えたその顔には、不気味な死微笑が浮かんでいた。 「おのれ——おのれえ!」  胸の杭に手をかけ、娘は絶叫した。  正直、傷は深くなかった。若者の体力は尽きていたのである。それなのに、娘は抜けなかった。  ああ、見よ。轍は二重溝を取っており、内側の輪を木軸がくぐり、その輪も砕けて左右に突き出し、ひとつの十文字を構成していたのである。  十字の杭だ。それを掴んだ娘の手は白煙を噴き上げ、皮は焼け爛れた。  声もなくのたうつ身体が、不意に仰向けにされた。  驚く暇もなく、杭は抜き取られていた。 「あなたは——!?」  まだ残る十文字の効果のせいか、息も絶え絶えに、娘はそう訊いた。 「バイロン・バラージュ男爵だ」  と、青いマントの影は、杭を二つにへし折って遠くへ放りながら、 「こんなところで何をしている?」  娘は真紅の薔薇が咲いたドレスの胸元に手をやり、ほっと息をついた。仲間と認めたのである。恭しく身を屈めて、 「私は南部辺境管理委員会理事コルネリウス・ドレイク公爵の孫娘ミスカ。とある用で、クラウハウゼンの村まで参ります」 「それは」  とつぶやいた男爵の表情に何を読み取ったか。 「もしや、あなたも、そこへ?——よろしかったら、ご同行させていただけませんか?」  すがるように言った。 「さて」  と男爵は逡巡した。ひとり旅ではなかったのである。 「いけませんか?」  絶望を黒蜘蛛の足みたいに顔へ広げた娘は、このとき、はっ[#「はっ」に傍点]とふり向いた。男爵が何か見ているのに気がついたのである。  一〇メートルほど離れた巨木のかたわらに、Dが立っていた。 「こちらは?」  思わず娘——ミスカが訊いてしまったのは、彼の凄愴な身なりと典雅な美貌が、あまりに不釣り合いだったからだ。見ためには貴族以外の何者でもない。 「私の信頼する護衛役だ。Dという」  そう紹介してから、男爵は、 「どうかな?」  と訊いた。ミスカの同行の件である。  その前に、 「D——まさか!?」  愕然と娘の形相が変わった。 「吸血鬼ハンター“D”——その名を何度聞かされたことか。私たちの宿敵よ」 「私と旅をしている。いわば相棒だな」  男爵の言葉に、ミスカの表情がゆらいだ。 「——あなたの下僕ですの?」 「残念ながら、彼には指一本触れていない。さっきも言った通り、私を護ってクラウハウゼンの村まで同行してくれる」 「まさか——」  とミスカは口のあたりに拳をあてて呻いた。 「まさか、貴族とハンターが一緒に旅を……信じられないわ」 「さっきの返事だが——どうかね?」  と男爵は訊いた。 「足手まといになるぞ」  とD。 「できるだけのことはする。だが、女の面倒は見られるくせに、自分を助けられなかったと、後で文句は言わないでもらおう」 「わかった」  と男爵は思いきりよくうなずいた。 「こういう次第だ。すまないが別れる他はない。夜明け前までに、人のいない土地へ辿り着いた方がよかろう。行きたまえ」 「貴族ともあろう御方が、ダンピール風情の言うことをおききになるのですか?」  ミスカは敢然と言い放った。爛と光る両眼でDをにらみつけながら、 「なら、私も申します。無事な場所まで送っていただきたいわ」  あっけらかんとした要求に、男爵は困惑した。貴族として淑女の苦難を見逃すことはできない。だが、彼には大いなる目的があり、それを果たすため、Dの存在は不可欠なのだった。  ミスカは怒ったような顔つきで男爵を見つめている。 「では、これから安全地帯までお送りしよう」  と彼は言った。  ミスカの表情に生気が甦った。星のきらめきが広がったようだ。これが貴族なのだった。 「ただし、今夜だけだ。打ち明けると、私の旅ははなはだしく危険だ。恐らくは彼がついていても、あなたひとりの道行きの方が安全だろう。決して、あなたの危難を見捨ておくわけではない。それだけは理解してもらいたい」 「承知いたしました」  とミスカは切り口上で言った。やっぱり、と男爵の表情が曇る。 「あなたさまの立場も窮状も理解はいたします。ですが、許せませんわ。自らの便宜のためにか弱い女を見捨てたと、貴族の誇りがあなたを指さし、いつまでも笑いつづけるでしょう」  男爵は沈黙した。彼にとって、それは予期してはいたが、しかし、予想以上に壮絶な効果を発揮する言葉であった。  数秒間、血を吐く思いの懊悩であったろう。 「今夜だけお送りしよう。貴族の掟からわたしは一生涯嘲られるだろうが、甘んじて受けるつもりだ」  ミスカの形相は、またも一変した。    3  そこから一時間ほど走ると、ことさら深い黒い森が見えてきた。  馬をつなぎ直した馬車と車内のミスカをそこに入れ、 「夜明けが来たら、我々は失礼する」  と男爵は声をかけた。 「遠路はるばるとお送りいただいて、ありがとうございました」  声明文でも読み上げるような返事が戻ってきたきり、ミスカの馬車は沈黙の淵に沈んだ。  苦笑とともに男爵は、自分の馬車のそばに立つDに近づき、 「貴族でも人間でも、女子と|小人《しょうじん》は養いがたしだ」 「その女子が四人の若者を殺した」  とDは言った。 「あれは彼らの責任だろう」 「責めてはいない。貴族といえども身は守らねばならん。だが、貴族の若者が同じことをしようとしても、せいぜい、横面をはられるくらいで済む。——そういうことだ」 「——あの娘、やはり、連れてはいけないか?」 「刺客かも知れんぞ」 「まさか」 「保証はない。この世界ではいかなる出来事も起こり得る」 「それはそうだが」 「なぜ、クラウハウゼンの村へ行くか訊いたか?」 「いや」  と首をふってから、男爵は、 「ふむ、偶然にしては」  と言った。 「やはり、別れて正解のようだ」  と納得したところへ、きい、と蝶番の音が鳴った。  ミスカの馬車の扉が開き、白い光が地上に降り立った。ミスカだ。二人には一瞥も与えず、街道の方へと泳ぐような足取りで歩き出す。 「あれは?」  と男爵が眼を細めた。 「ここにいろ」  と言い残して、Dは光るミスカを追いはじめた。  さしたる速度ではなく、たちまち追いついたが、そのたびに、まるで、Dの起こす風に押されでもするみたいに、ふわあと一〇メートルも先へ飛んでいってしまうのは、シャボン玉を追いかけるようでもあった。  月光も届かぬ、鬱蒼と枝葉の繁る森の一角で、その姿は忽然と消えた。  Dも立ち止まった。鼻をつままれてもわからぬ|如法闇夜《にょほうあんや》の中で、彼の眼は、昼の光の下にあるように、世界を見ることができた。 「まんまと誘い出されおったな。邪魔者めが」  どこからともなくミスカの声がやってきた。 「あの方がわたしを邪慳にするのは、おまえが要らざる知恵を吹き込むからにちがいない。でなければ、まことの貴族が婦女子の苦しみを見捨てておけるはずもない。下賎の者の血が混ざったにせものめ——ここで手にかけてくれる」 「婦女子の難儀か」  とDは静かに言った。 「ハンターを狩ろうという女——さぞかし、か弱い乙女だろう」 「黙れ」  激昂の叫びと呼応したかのように——  Dの前方に、ぱっと|人形《ひとがた》のかがやきが生じた。  ミスカである。  足を動かす風もなく、Dの方へ向かってくる。 「面白い」  と言った。Dではなく、左腰のあたりで、嗄れた声が。  Dの左手が動いた。  何かが風を切り、木立を貫いた。  あっ!? と女の声が上がり、すぐ静かになった。かがやくミスカが消えたのも同時だ。  音もなくその地点へ跳躍し、木の幹に刺さった白木の杭のみを見て、Dは反転した。  その前方に、音もなく、黒い霧状のものが噴きつけてきたのである。  Dが大地を蹴るのと、それ[#「それ」に傍点]が彼を包むのと、ほとんど同時。  五メートルほど離れた草むらから苦鳴が上がったのは、さらに数秒後のことだ。 「私のめくらましにかからなかったのは見事だが、死の霧は防げまい。さすがは吸血鬼ハンター“D”。気を抜かせるのに手間がかかったわね」  どこからともなく現れてこう言った白い影はミスカである。Dが彼女の幻を見破ることは最初から計算ずくだったらしい。 「私の血も体内に入れば毒に変わる。貴族といえど三日は身動きできなくなるわ。いわんやダンピールごとき」  草を踏む足音とともに、Dの着地点へ近づく右手には、どこに忍ばせていたのか、刃渡り三〇センチにもおよぶ大型のナイフが握られている。  はたして、Dは木の根元に仰向けに倒れていた。 「あの方に叱られるかも知らないけれど、それは甘んじて受けましょう」  ナイフが上がり、ふり下ろされた。  それは空中でがっき[#「がっき」に傍点]と受け止められたのである。 「まさか!?」  愕然と眼を剥くミスカの下で、彼女より遥かに美しい若者がゆっくりと起き上がった。 「これは本物か」  とDは言った。 「どうして、私の血の霧が?——おまえは不死身なの?」  ミスカを押さえた左手の接触部分で、かすかな笑い声が起きたようだが、無論、彼女にはわからない。 「殺せ」  とミスカは呻いた。声も唇も震えていた。自らの術が、人間と貴族の合いの子に破れた。貴族たるミスカにとって、これは死に勝る屈辱だったことだろう。  もとより、自分の生命を狙った相手を許す若者ではあり得ない。ミスカの命運はこの場で尽きるしかなかった。  Dの右手が閃いた。  長剣が迸ったのは、その頭上へであった。樹上から舞い降りた影は声もなく両断され、その数は六個に及んだ。 「まだよ」  とミスカが影を見つめた。驚くべきことに、愉しそうであった。  Dにもそれはわかっていた。  両断した都合六つの影が、のこのこと起き上がる前に、剣が手応えの異常を伝えていた。 「私より前に片づける相手ができたようですわね」  ミスカの眼は六個の影たちに向いている。  影たちは動かない。生き返ったものの、Dの刃の味を知ったのであろう。右手の先がかがやいた。刀身であった。  そいつらの方を向いたまま、Dの左手が上がり、びゅっと空気が鳴った。  同時に影どもがとびかかる。  Dの刃が打ち落としたのは、最初の影のみだった。  残りは上半身下半身ともに空中に舞いながら、あたかも糸の切れた人形のように、どっと大地に落下したのである。葉がゆれて月光をふり落とす。  その数瞬まえ、樹上で、うっという苦鳴が上がったのを、Dは聴き逃さなかった。白木の針は標的を射たのである。 「人形遊びは終わりか」  とDは高みに向かって言った。ミスカが眉をひそめた。Dの言う意味がわからないのである。  樹上から、陰々滅々たる声が流れてきた。 「さすが、あいつ[#「あいつ」に傍点]が護衛を頼むだけはある男——おれの居場所を見破ったのは、おまえがはじめてだ」 「|傀儡師《くぐつし》か」  とD。 「その通りだ。人は“人形師のマリオ”と呼ぶ。断っておくが、いまの奴は、ほんの小手しらべだ。これから後、おれの人形どもを見破れるか」  声は痛みを忘れたかのごとく笑った。  Dの右手から再び光の矢がとび、木立をゆすると、 「いずれまた逢おう、美しきハンターよ。今度は地獄の底でかも知れん」  Dの背後の木立から同じ声が湧き上がり、一度、梢がざっと鳴って静かになった。  Dは眼の前にふりかかってきたものを手で払った。ミスカも気づいたらしく、 「なにかしら、この糸は?」  と言ってから、はっと足下の影たちに眼を移し、ひとりうなずいた。 「ねえ」  とDに呼びかけてから、あることに気づいて表情が変わった。右手はなおもDに握りしめられていた。この状態で、彼はどうやって剣を操り、木の針を投げたのか。二対の眼が合った。  彼女を処分すると告げたときから変わらぬ氷の眼であった。 「まだ……私を?」  ミスカは一歩下がった。戦慄が脳天から爪先まで抜けた。解放が何を意味するか、わかったのだ。  Dの刃がちら、と動いた。そのとき—— 「待て!」  声はバラージュ男爵のものである。  草を踏みながら近づき、 「もしや、と思って来てみたが。——やめろD。この娘に手を出すことは許さん」 「おれを狙った」  Dの返事に、男爵はとまどった。足下に倒れた黒い塊に気づき、襲ったのはそいつら、と思ったのである。すぐに、ミスカの方を見て、 「馬鹿な真似を——二度としてはならんぞ」  激しい言葉にミスカは眼を伏せた。  Dが前へ出た。男爵はあわてた風に、 「よせ。じきに夜が明ける。それが別れだ。放っておけ」 「どけ」  とDは言った。 「私は雇い主だぞ」 「何のためにおれを雇った? おれがいなくなれば、おまえが危ない。この女はそれを承知でした」 「今回だけは我慢したまえ」  男爵は冷静に言った。 「それに、君はひとつ、護衛として大いなるミスを犯した」 「ミス?」 「さっき、私も襲われたよ。——見たまえ」  左半身のマントを翻すと、ざっくり[#「ざっくり」に傍点]と割られた肩が現れた。貴族の再生力の凄まじさで、傷自体はもう半ばふさがっているが、上衣は赤く濡れている。 「奴らは同時に襲ったんだ。君が私のそばを離れるのを待ってな。それに気がつかなかったのは、護衛として明らかなミスだろう」  およそ、|牽強付会《けんきょうふかい》な言い草だが、Dの刀身は鞘に戻った。 「二度目はない」  と告げたのは、ミスカに対してか男爵に向かってか。貴族の娘が、ほっと両肩を落としたのは事実だった。 「戻るぞ」  とDが告げた。  男爵は不思議な思いに囚われた。自然に従ってしまうのだ。旅の間は彼の指示に従うと明言したものの、貴族の心情としては本来、承服できかねる状況であろう。ましてや、雇い人としての言い廻しや態度からは星ほどの距離がある。それなのに、腹も立たない。——どころか、そうしていれば安全とでもいう風な信頼感さえ与えられるのだ。  ダンピールには無論、貴族の血が混じっている。そこから生じる共鳴みたいなものが、実は貴族にとっては、かえってダンピールを嫌悪する最大の原因となるのだ。  自分たちと同じ貴い血が人間の中に?  この感情ゆえに、ダンピールにとって貴族の首級を上げることが最大の誉れなのと同じ意味で、貴族にとってはダンピール退治が最低の愚業なのであった。  南部辺境区のとある貴族の館では、年に一度、人間の市を真似た“首市”が開かれ、陳列されるおびただしい人間や獣の生首のうち、最も安価なダンピールのそれは、それこそひと山いくらで取引される。もっとも、このような過剰な蔑みこそ、貴族たちのダンピールに対する複雑な心情を反映しているものといってもいい。  男爵とて例外ではないだろう。現在の道行きには不可欠の存在とはいうものの、ダンピールたるDの指示に従うことは少なからぬ精神的屈辱を与えずにはおくまい。ミスカの行為もそれをふまえたものだろう。それなのに——  この若者は、自分が想像しているより、遥かにもの凄い存在ではないのか——。ふと、浮かんだ考えを、男爵は意識的に押し殺した。 「どんな相手だった?」  Dが歩きながら訊いた。 「花からできた奴だ」 「花?」  Dがミスカを追ってすぐ、黄色い花粉のような粉が風に乗って吹きつけてきた。  とっさに息を止め、男爵は黄色い渦の向こうに立つ七彩の影を見た。  長身を覆うマントは大きく広げられていた。七彩と見えたのはその下の身体が、絢爛たる花びらに覆われているためであった。粉は——花粉はその一種類から吹いていた。  男爵は馬車の陰に隠れた。  次の瞬間、頭上から別の狂気が襲った。  間一髪で肩が裂けた。それで済ませたのは、貴族の超人的な反射神経の賜であった。  素早く空を見上げたが、闇を見透かす貴族の眼をもってしても、猛スピードで南の方角へ飛び去る翼のある影しか判別することはできず、七彩の刺客もまた消えていた。敵は二人いたのである。 「知っているか?」  と男爵は訊いた。 「花人間の方はな」 「ほう」 「“紅はこべ”といって、東部地区では有名な吸血鬼ハンターだ。おれの出会ったマリオは西で三本の指に入る。どうやら、辺境中の腕利きを敵に廻したらしいな」 「怖じ気づいたかね?」 「解雇できるのは、おまえだけだ」  男爵はうすく笑ったきり、野営地に着くまで口をきかなかった。[#改ページ] 第二章 七人の刺客    1  ミスカを馬車の前まで送り、 「東の空が白みはじめている。早く休みたまえ」  と男爵は彼女の手に口づけした。 「あの無礼者に、馬車に火をつけないように伝えておいて下さいませ」  じろ、とにらみつけるのへ、苦笑しながら、 「確かに」  と男爵はうなずいて、 「あなたが眼を醒ましたら、私たちはいない。これでお別れだが、お気をつけて」 「さっきの奴らが襲ってきたら、どうなさるおつもり?」 「お許しあれ」  ミスカは憤然と身を翻して馬車の中に消えた。  男爵はふり向き、背後のDが手にしたものを見て、眉宇を寄せた。  刃渡り二〇センチほどの小剣が黒く冴えている。 「柩へ入る前に手術だ」  とDは言った。 「どうして?」  男爵はあわてた様子もなく訊いた。 「花人間の技を耳にしたことがある。花粉を体内に吸収させ、血を糧に花を咲かせるそうだ。“血は生命なれば”」 「ほう。で?」 「血を吸われた貴族がどうなるか知っているか?」 「まかせよう」  男爵はうなずいた。 「馬車には手術道具があるが?」 「時間がない」 「しかし、私は——」  言いかけた声が急に詰まった。喉を押さえて男爵は咳きこみ、地面に片膝をついた。  Dは何をしたか。  いきなり、男爵のマントの襟首を掴むや、ぐいと自分の足下に引き寄せたのである。  その刹那、地面から逆上がりに白光が噴いた。  たまろうはずがない。一メートルもの長刃は、男爵の右肺を深々と刺し貫いていた。 「D——!?」  男爵の声には、苦痛と驚きの響きがあった。そのはずだ。どう考えても、Dは地中の|白刃《はくじん》めがけて男爵を引きずったとしか思えないではないか。  一気にDはマント姿から跳び下がっている。  敵は逃亡してはいなかった。黒土の中に恐るべき刺客が残っていたのである。  だが、たとえ、穴を掘っていたにせよ、地面は固い。誰だろうと、自在に動けるはずもない。  そうと知りつつ、大地へ向けたDの瞳は、生死の戦いに挑む男のものであった。  不意に足底の感覚が変わった。  Dの跳躍——それを追って白光が突き上げた。  ほとんど一八〇度身をよじって、Dの白刃が迎え討った。  光が打ち合い、片方が砕けて跳んだ。砕いた刃は信じ難い角度で反転し、足下の地面に半ばまで突き通った。  手応えを確かめもせず、Dはそれを引き抜いて地面へ意識を集中した。  固い土中を移動すべく、敵は土の分子に振動を与えて瞬時に砂に変え、しかも、移動後は速やかにもとの状態に戻し得る。敵の刃がやすやすと突き抜け、Dの刀身が半ばまでしか刺さらないのはそのためであった。見よ、致命傷こそ受けなかったものの、Dの右脚は血を噴いている。  これでは、神出鬼没の第二撃をかわせるかどうか。  束の間、天地には静寂が落ちた。  Dは気づいているだろうか。空気は蒼味をおび、森では梢の鳥たちが羽搏きつつあった。朝日が男爵を照らすまで二〇分とかかるまい。わずか二〇分——永劫を生きる貴族の、生死を分かつ時間であった。  土中の敵が、それまで動かぬとしたら。  五分——一〇分——Dの足下の影が、次第に濃くなっていった。  馬車のドアが開いたのはそのときであった。 「男爵さま!?」  戸口で立ちすくむミスカの姿を背後の照明光が陽炎のように浮き立たせた。|剣呑《けんのん》な気配を察して様子を見に出たのだろう。  刹那——Dの足下が崩れた。  突き上げられる新たな一刀。  Dは空中にいた。足底から伝わる分子変換の感覚でなく、ミスカの姿に合わせて大地を蹴ったのだ。ほんの数十分の一秒早く。  刀身が土中へ没すると同時に、彼は着地し、すでにふりかぶっていた刀を垂直に大地へ突き通した。  黒土へ——鍔元まで。  地中から、激しい痙攣が伝わった。Dの身には断末魔の苦鳴さえきこえたかも知れない。  さっき、半ばまでしか突き通せなかったのは、すでに敵が移動したと知った上での芝居だったのだ。ダンピール——貴族の血が与えた怪力を、地底の刺客は理解していなかった。ミスカの出現を、Dの気をそらす好機と捉え、安易に危険な深さまで浮上し——  顔も見ぬ敵の死を確かめてから、Dは男爵のもとへ駆け寄った。ミスカがすでに頭を抱いている。 「D——なぜだ?」  と男爵は訊いた。刃の来る位置へとばした理由である。だが、|喘鳴《ぜんめい》は以前より苦しさがうすれ、|呼吸《いき》も深い。肺の傷はさしたる痛痒を与えなかったとはいえ、先刻の苦しみはどこへ消えたのか。 「さっきの呼吸からして、右肺に花が咲きつつあった」  とDは言った。その顔をにらみつけているミスカでさえ、我知らず頬を染めている。 「おれが取り除いてもいいが、敵が来た」  男爵の眼が驚愕に見開かれた。いや、ミスカまでが、貴族の慎み深さはどこへやら、あんぐりと口を開いたではないか。 「ひょっとして、君は——あのひと突きで、その、花とやらを?」 「——まさか」 「呼吸は楽になったようだ」  とDは言った。  全員が沈黙に落ちた。  すると、あの瞬間、Dは地中から跳ね上がる刃の速度と男爵の胸中の悪腫の位置とを判断し、刃のひと突きで奇怪な花とやらを切り落としたというのか。刺客に負わされた傷を刺客自らの手で治療させたと——  沈黙のうちに、薔薇色の光がミスカの頬を染めた。  はっと立ち上がった男爵が、片手で陽を防ぎながら、Dの方を向いた。 「意外と合理的な男だな」 「先は長い」  とDは答えた。他人の言にいちいち応答するのは珍しいことだった。  二人がそれぞれの馬車に戻ってから、Dは馬にまたがった。  水のような光の中を、人馬が動き出すと、男爵の馬車もまた、轍をきしませはじめた。  森を抜ける道へ出るときも、Dはふり向かなかった。  夜までは人もやってこない空き地に、白い馬だけが残された。  長い眠りにおちた主人の指示を無心に待ち続ける馬たちの毛なみを陽光が照らし出し、時折身じろぎすると、白い稲穂のように波打たせた。  誰も来ない。来たとしても、馬車を見ただけで逃げ出すに違いない。白いドレスの女が目醒めたとき、頭上には寂しく星が光る。それは、ひどく孤独な姿だった。  昼のあいだに距離を稼がなくてはならないが、敵の攻撃も激しくなるだろう。昨夜の戦いはこちらの腕試しとDは見なしていた。本格的に矛を交えるのはこれからだ。  とりあえず、二キロ先に小さな村があった。  村へ入ると、村人たちの恐怖の視線がDと青い馬車に集中した。  人間離れした美しい若者と絢爛たる豪奢な馬車——誰でもわかる。  貴族、貴族のささやきが、朝の通りに溢れ、さざなみのように伝わっていった。  それでいながら、馬上のDを見上げたものたちの頬は薔薇色に染まる。老若男女を問わず、その天上の美に、だれもが恍惚とならざるを得ないのだ。  やがて、Dと馬車は村外れの鍛冶屋に吸いこまれた。  鍛冶屋といっても、小さな工場に等しいサイズの作業場である。農機具の修理や製作だけでなく、自動車や簡単な|電子装置《エレクトロニクス》の販売まで扱う。その場「都」からのルートの種類が重要になってくる。  Dの注文を聞いて、鍛冶屋の主人は眼を丸くした。 「半分はうちでやれますが、後の半分は無理でさあ。そんな|危《やば》い細工は“移動鍛冶屋”でなきゃあね」 「半分まで仕上げるのに、どれくらい時間がかかる?」 「そうですな。ざっと二日」 「一日でやってくれ」 「なら——手数料をはずんでもらわなきゃね。——へへ」  鍛冶屋は卑しい笑みを顔に貼りつけた。 「幾らだ?」  主人が口にした金額は相場の五倍だった。 「いいだろう」  とDはうなずいた。  美貌の上下と同時に、主人の笑みを白い光が縦断した。  脂ぎった顔は額から鼻筋を通って顎先までが両断されていたのである。切れたのは皮膚だけだが、凄まじい痛みはある。それなのに、鍛冶屋は動けなかった。眼前の美しい若者は別の生物に変わっていた。そこから吹きつけるのは凄絶な鬼気であった。 「これは特別料金だ」  とDは言った。 「正規分もすぐに払おう」 「わ、わかった」  と鍛冶屋はつぶやくように言った。顔から胸もとまで赤く染まっていた。 「正規の料金でいい。——ビタ一文、余計な金は取らねえ。約束する」 「倍払おう」  とDは言った。 「へ?」 「二日の仕事を一日でやる以上、当然の報酬だ」  鍛冶屋は、訳がわからないという表情になった。  Dが歩み去ってから少しして、ようやく、 「いい男のやるこたあわからねえ」  とつぶやいた。  その日いちにち、村人たちは、鍛冶屋の窓から洩れる火花や青白い電磁波を不気味な表情で眺める羽目になった。 「まだやってやがる。こいつは徹夜仕事になりそうだぜ」  と、テラスから闇を透かしていた男が、うす笑いを浮かべて部屋へと戻ってきた。  村に一軒しかない宿の二階である。  鍛冶屋までは一キロ近い距離があるのに、男の鷹のように鋭い眼は、月さえもない暗夜を真昼のごとく見ることができるらしかった。  部屋には他に四つの人影があった。ソファにかけたり、床にすわりこんだり、壁にもたれたり、姿恰好は色々だが、どう見てもただの旅人ではありえない不気味な雰囲気の主ばかりであった。  皆、ここ一時間の間にそれぞれ時間をずらして現れたものである。 「何をしていると思う?」  と訊いたのは、茶のマントを着た長身の男である。紅はこべとDは呼んだ。 「おれたち用の小細工だろう。——馬車につけているのかな」  夜目の利く男がそう言ったのを、別の——僧服の男が受けた。 「それは明日、彼らが出て行ってから鍛冶屋に訊けばよい。——ただ、明日になると厄介だぞ」 「向こうの準備が整う前に、ちょっかいを出してみるか。だが、誰が行く? 相手は、タネルを葬った男だぞ」  と、テラスから戻った男が言った。顔幅が妙に狭く、不必要なほどゆったりとした黒衣をまとっている。 「おれはごめんだ」  と部屋の隅で、さっきから何もない空間に眼を向けている男が言った。  右手を顔の前に、左手を胸のあたりにかざして、何かを引っぱっているようだが、その間には何も見えなかった。 「一度、技を破られて|臆《おく》したか、マリオ?」  と狭隘な顔立ちの男が皮肉っぽく訊くのへ、マリオは黄色い上衣の襟を指で引っかけて下ろした。  首すじの肉が三センチほどにわたって裂けている。 「それがどうした?」  と僧服の男が訊いた。他の連中も、それ以上の感慨はないようだ。この職業につく前から、その程度の傷は山ほど負い、遥かに重い傷からも生還した男たちであった。 「奴が投げ針を使うのは知っていた。手が上がるのも見た。それでいてこの様だ。だが、それはいい。——見ろ」  マリオは両手指を眼の前に開いて見せた。  全員が見つめ、キョトンとした表情になった。 「まだ自由に動かんのだ。何故だと思う? 奴の剣がおれの人形を両断した。その手応えを感じたのさ」  今度こそ、男たちは顔を見合わせた。彼らは辺境中から集合した腕利きのハンターであった。  だが、鼻白んだのは一瞬のことで、たちまち全員がうすく笑って、 「なら、みなでかかるか。臆病者は除いてな」  と夜目の利く男が言った。  反応は意外だった。全員がそっぽを向き、 「それでは、報酬も頭分けになる」  僧服の男の言葉に、今度はうなずいたのである。 「襲うなら、やはり昼。ちょっかいと言っても、あの男——確かに手強い。それに、男爵も起床したにちがいない」 「では、むざむざ奴らの迎撃準備を整えさせるのか?」 「いや、わしが邪魔してこよう」 「ん?」  と、みなが眼を剥いて、 「抜け駆けをするか。Dはともかく、男爵にかかる順番は決めてあるはずだぞ」  こう紅はこべが異議を唱えたのである。|僧形《そうぎょう》の男は静かに、 「安心せい。奴らの作業を中断させるだけよ。それに、わしの番は次の次。標的の観察をする権利くらいは行使してもよかろう」  一同は顔を見合わせた。不穏な空気が室内に満ちた。  静謐な水面に、ぽつんと水滴が落ちた。 「当然の権利だ」  全員の注目を浴びたのは、五人目の男であった。一同の中では最も若い。Dや男爵とさして変わるまい。異様に白い——蝋のような顔色をしていた。  さっきからひとことも話さず、壁にもたれていたのを、みなが知りながら無視していたのは、虫が好かないからでも、影がうすいからでもなく、何となく気味が悪かったからだ。この凶人たちが。 「行くがいい。——その前に、次の指示をきいておけ」  おお、と声が上がって、全員が彼の方へ向き直った。    2  辺境の各地に散らばっていた男たちのもとへ、奇妙な依頼があったのは、ほぼひと月まえである。  南部辺境区のとある廃墟へ集まれと、通信用|MD《ミニ・ディスク》は言った。  旅の途上にある若い貴族を抹殺してもらいたい。報酬は次のごとし。なお、貴君の他に六人のハンターにも声をかけてある。戯言でない証拠に、このディスクと前後して、廃墟までの旅費が届くはずだ。  プロとしての名声と実力を兼ね備え、それゆえに、他人と組むなど一笑に付すべき男たちが、全員、要請に従ったのは、ディスクの声の名状しがたい貫禄と、確かに相前後して届けられた旅費の金額によるものだ。廃墟までの往復を、彼らに考え得るかぎりの贅沢な方法で行っても、十回以上繰り返せる。——手っ取り早くいえば、彼らの収入一年分に当たるほどの額だったのである。  廃墟には黒ずくめの虫を思わせる老人が待っていた。  そして、彼らは、干からびたその口から、ある貴族の暗殺を依頼されたのである。暗殺の理由も、依頼主の名も明かされなかった。脅かして訊くこともできたが、そんな気にさせない妖気のような雰囲気を老人は持っていた。  報酬は、辺境区の半分を丸ごと買い占められるほどの額であった。口先だけではないという証拠に、老人は彼らに、貴族しか合成し得なかった貴金属のかけらを手渡した。 「これだけで、おまえさん方は一生遊んで暮らせる。それを持ち去り、仕事を反古にしようとも構わん。だが、超一流のプロは超一流の欲深に決まっておる。残りの報酬に目をつぶるほど甘い人間ではあるまいよ。仕事の手順はおまえさんたちにまかせよう。こちらの指示はそのつど、おまえさん方の誰かを通して送る。奴の居所と人相はすぐ手に入る。幸運を祈るよ」  それから、ふと憶い出したように顔を上げ、 「そうそう、ひとつ断っておくのを忘れた。ここへ集まったのは六人だけだが、実は、もうひとりいる。少し変わった相手でなかなか連絡が取れなかったが、今日、ようやく話がついた。あんた方とは別行動になるが、仕事は受けるそうだ。名前はカゲ。性別はわしにもわからん。忘れるな、もうひとりの仲間を」  そして、老人はその場に崩れ落ちた。六人の刺客たちが眼にしたのは、黒い衣裳を埋める灰色の塵と、貴族——バラージュ男爵の人相と居場所を吹きこんだMDであった。  早速、彼らは行動に移った。  どうやる? どう斃す? ひとりずつかかるか、まとめてか?  彼らの性格からすれば、個人攻撃だろうが、貴族の容易ならぬ実力は、誰よりも彼ら自身が最も知るところだ。  彼らはその場で相談した。仲間でありながら、炎のような敵意を隠さぬ談合であった。  そして、現在の形が——抜け駆けを許さぬよう全員まとまって、しかし、彼らの最も好まぬ山分けの結果など決して出ないよう、籖による攻撃順序の厳守が決められたのである。その場合、ひとりずつでも構わないが、当人が助力を求め、誰かが応じる場合、成功報酬は攻撃人数分の分配となる。  こう約定して、六人のハンターはバラージュ男爵のもとへと殺到した。  男爵はいなかった。彼らが目撃したのは、溶け崩れた城の廃墟のみであった。八方手を尽くした挙げ句、ようやく、クラウハウゼンへと向かう若い貴族のことを耳にしたのが、一〇日前である。しかも、それには恐るべき情報が伴っていた。貴族はDを探し求めていたというのである。  彼らとてDの名は知っている。自らの技倆に絶対的な自信を持つ殺戮者たちではあったが、このときばかりは、一も二もなく、貴族とDの邂逅前に彼を襲うことを考え、策を練った。  その結果は——ついに間に合わず、二人の出会いを許した上、順番に従ったタネルはいともたやすく葬り去られ、協力したマリオは手傷を負って逃げ帰った。そして、次の攻撃に加わることにも脅えている。  いつ、手に入れたのか、青白い男が黒衣の下からMDプレーヤーを取り出してテーブルに置くと、聞き覚えのある嗄れ声が流れはじめた。あの老人のものだ。 「苦労しておるようだな」  全員が緊張したのはいうまでもない。声はつづいた。 「奴の行く先を教えよう。クラウハウゼンの村だ。そこへ行くまでには幾つもの街道があるが、しばらく尾けてみれば、ルートもわかる。途中で待ち伏せるがいい。シャバラの渓谷に、おまえたちの役に立つ道具が置いてある。では——幸運を」  最後の言葉は笑いを含んでいた。  五人の凶人たちは顔を見合わせた。憤怒の形相であった。 「では——」  と僧形の老人が声をかけたが、応じる者はいなかった。  鍛冶屋の作業場では、主人以下、数人の弟子が働いていた。どの顔も恍惚とし、脅え切っていた。  日没とともに、青い馬車の扉が開いて、マントの影が地上へ降り立ったのである。その美貌を見るまでもなく、素姓は想像がついた。しかも、彼を出迎えた若者がまた、彼以上に人間離れして美しいときている。 「何をしている?」  とバラージュ男爵は作業場の方を向いてDに尋ねた。 「攻撃に対する仕掛けだ」  Dは素っ気なく応じた。 「人間どもの攻撃を避けるのに、人間どもの手を借りねばならんのか」 「無事に着くことが先決だ」  男爵は唇を歪めた。  職人たちが一斉にこちらをふり返る。鬼気を感じたのだ。 「夜歩きでもしてこよう」  と男爵は戸口の方へ歩き出した。 「約束を忘れるな」  とD。 「わかっている」  片手を上げて男爵は夜の通りへと出て行った。 「いまだ、貴族の誇り衰えず。——人間にとっては剣呑な奴じゃの」  Dの左腰のあたりで、嗄れた声が上がった。 「行かせて大丈夫か?」 「わからん」 「ふむ。——敵も近くにおるぞ」 「わかっている。奴にもな」 「お互い、頼り切る間柄ではないというわけか。ふむ、大いに結構」  皮肉っぽい口調である。  ぐいとDの指が握りしめられて声は途切れ——別の声が上がった。 「何してやがるんだ、おめえは!?」  怒声は主人のものである。その前で、溶けた鉄を冷ましていた中年の職人が、きょとんとした顔つきで、 「いえ、その——」 「いま、水なんか入れたら、|鬆《す》が入っちまうじゃねえか。一〇年もやってて、基礎の基礎もわからねえとは、おい、てめえら今まで——」  眼を剥く主人の前で、職人は、ぼんやりと、 「いえ。なんだか、こうした方がいいような気がしたんで」 「なにィ?」  主人は食いつかんばかりの形相で、職人の胸ぐらをとらえた。 「いいか、おれは貴族の片棒なんざ担ぐ気はねえ。正直、いまだって、こんな仕事は放り出してえくらいだ。だがな、いったん引き受けた以上、そうはいかねえ。出来るだけのことはする。誰だろうが、うちの仕事場を使う仕事に手抜きやいい加減は許さねえ。おめえにもだ。わかったな?」  と職人を突きとばして、一同の方を向き、 「みんな、わかったな!?」  と声をかけた瞬間、作業場の奥で凄まじい電磁波のスパークが起こり、悲鳴がそれに重なった。 「馬鹿野郎!」  主人が駆け寄り、そばにいる職人と一緒に、声の主を引きずり出した。青白い稲妻がそのたくましい肩や腕を灼いた。 「どうしたんだ?」  と無事な職人に訊いた。 「それがこいつ、いきなり、電圧を危険レベルまで上げちまったんですよ」 「なにィ!?——おい、どうしてそんな馬鹿な真似をした?」  ゆすった相手は救出したばかりの職人である。顔と胸が無惨に焼け焦げていた。彼は小さく開けた口から、糸みたいに細い声をふりしぼった。 「何だか——そうした方が、いいような気がして……」 「おめえもか!? 一体全体」  言いかけて、主人は凍りついた。  いや、他の職人も、燃えさかる熔鉄さえも氷の森と化したようであった。  主人のかたわらにDが立っていた。 「あ、あんたは……」  問いを無視して、Dは、 「なぜ、そう思った?」  と負傷者に訊いた。 「——いや、何となく……そう思って……逆らえなくて……」 「逆らう?——誰に逆らうのだ?」  と主人が口をはさんだ。 「わかりません。……なんだか、えらい……人に……」 「えらい人?」  主人がDの方を向いて、わけがわからないという表情になった。 「しゃあねえ——奥で女房に治療してもらえ。後は何とでもする」 「親方——おれも休んでいいだろうか?」  と訊いたのは、最初の職人だった。 「なにを!?」 「あの、なんか、そうした方が……」 「いいような気がするって、お天道さまが命令でもしたのか!? それとも、誰か、天の上にいるお偉いさんがよ!?——そんな妄想狂に仕事場にいられちゃ敵わねえ。とっとと出てけ。明日から来なくてもいいぞ!」 「そんな」 「やかましい。出て行け、後はおれとヤマでやる」 「親方……」  と最後のひとり——ヤマが呼びかけた。 「すいませんが……おれも」  主人が青筋を立てる前に、Dが戸口の方へ向かって歩いた。  通りへ出て左右を見廻し、足早に進みはじめたのは、男爵の消えた方角であった。  男爵にとって、夜の彷徨は必ずしも快適とはいえなかった。  澄み切った闇を真昼のごとくかがやかせる星々。空気には夜咲く花の香りと生き物たちの匂いが満ち、いまだ眠りから完全に醒めたとはいえない脳細胞を活性化させてくれる。  それなのに、男爵の表情は固く、吐く息は荒く、夜の静寂の波動を脅やかす。  まさしく、彼は血に飢えているのである。  この辺りは貴族の支配を早くから免れたためか、カーテンも下ろさぬ家々の窓には皓々と明かりが点り、笑いさざめく声が通りにまで洩れてくる。窓辺をふと横切るのは長い髪をした女の影だ。  それが男爵をそそるのだ。貴族の飢えに火をつけるのだ。  馬車には乾燥血漿も積んである。日に三度、男爵はそれを溶かして嚥下し、空腹を満たす。貴族の科学力が合成したそれは、香りも味も栄養分も、人間の血と寸分変わらない。  それでも駄目なのだ。貴族たちにとって、食事とは栄養の摂取ではない。精神のための糧なのである。  獰猛な虎を見たかよわい兎のように脅える犠牲者。彼らを追いつめ、押さえつけ、白いうなじを探る快感。うす青い血管を見つけたときの喜び。そして、牙をたてた瞬間、口腔に溢れるえも言われぬ甘い香りとあたたたかさ。  数日後、二度目の淫靡な訪問を受けた犠牲者が、自らの寝室に彼を引き込み、進んで首すじを差し出す——そこで味わう征服の愉悦よ。  これこそが貴族の食事なのだ。  いかに安全な土地とはいえ、夜の街路へ出る村人はいないようであった。  Dと交わした約束とそれとが相俟って、男爵に吸血の行為を行わせなかったといえる。  そのとき、男爵の前方に人影が現れた。  村娘らしい。右手に花篭を下げている。自分が花畑に入りこんでいるのを男爵は理解していた。  道の左右で白い花が月光を跳ね返し、馥郁たる香りが漂ってくる。  近づいてくる男爵を認めて、娘はすくみ上がった。人には貴族がわかるのだ。兎に狼が識別できるように。 「あなた……あなたは……」  声は娘の意志とは別にまろび出た。 「何をしている?」  と男爵は訊いた。他の言葉は思いつかなかったのである。腹の底からいわく言い難い衝動がこみ上げてくる。それを抑えるように、 「花摘みか?」  娘はうなずいた。 「朝……村を出るので、お別れに友だちへ配ろうと思って……」  花篭にそろえた白い花弁へ眼をやり、男爵は近づくと、その一本を手にとり、口元に上げた。娘は震え上がっている。  その身体から伝わる怯えの波動とかぐわしい体臭。そして、眼の前でゆれる白いうなじ。 「いい香りだ」  と男爵は言って、花を篭へ戻した。 「夜は危険だ。早く家へ戻れ」  娘はきょとんと彼を見上げた。 「……どうして……?」  困惑に濡れた声であった。  男爵は微笑した。 「血を吸わないのか、か?」 「はい……」 「そうしたいが、約束があってな。破ったが最後、私はひとりになる。目下のところ、それは困るのだ」 「………」 「行け」  娘は後じさり、男爵の背後に廻ったところで後ろを向いて走り出した。  靴音が地面から跳ね上がり、遠ざかっていく。  男爵は大きく息を吐いた。  何とか耐えられそうだ。  彼はもと来た方を向いた。  マントが翻った。  すると、その内側から凄まじい光が走り、二〇メートルほど前方の人影を襲ったのである。 「おおっ!?」  驚愕の声を上げて、人影——僧形の老人は身を伏せた。  頭上を越えた光は闇に消えずに反転し、男爵のマントの内側へ吸いこまれた。 「どうした。近づきすぎたか?」  男爵の声に、老僧はのこのこと身を起こし、つるつるの頭を撫でた。 「くわばら、くわばら。仰せの通りじゃ。村娘と話しているのを見かけたもので、その後、何が起こるかと調子に乗りすぎたようじゃな。お初にお目にかかる。わしの名はヨプツ。おまえさまを処分しに来たものの一派だ」 「小汚いハンターか。だが、今日が最後だ」  男爵の眼が凄絶な光をおびた。 「ひえ」  叫んで老僧——ヨプツは、およそハンターらしくもなく背中を見せ、一目散に走り出した。  男爵のマントから、黄金のかがやきが迸り、ヨプツの頭部をかすめた。  ヨプツは止まらなかった。そこからさらに一〇メートルほど走って、へなへなと崩れ落ちた。首のない胴のみが。  光はまたもマントの中へ戻っている。 「愚かものが」  と吐き捨てた男爵の声は氷のようであった。  死体の方へ歩き出し、すぐに足を止める。  闇よりも濃く美しい闇が、人の形をとって、ヨプツの遺体のかたわらで停止した。  胴体のみである。老人の首は五メートルほど男爵に近い路上に落ちていた。 「断っておくが、そいつは私を狙っていたハンターだ」  と男爵は言った。  Dはうなずき、背を向けた。  男爵に戻れとも言わない。彼はヨプツの気配を追ってきただけなのだ。 「やはり、狙われたの。だが、首を落とすとは、凄まじい。喧嘩をしたくはないの」  下げた左手の先で声がした。  背後から足音が近づき、男爵が左に並んだ。 「散策をつづけたらどうだ?」  とDは言った。 「やめておこう。過ごし易い晩とは言いがたい」  男爵は、いまの凄まじい殺戮者と同一人物とは思えぬ涼やかな声で言った。  二人が歩み去ってしばらく、月光だけが降り注ぐ土の路上で、低い死者の声がきこえた。 「やれやれ。また二つにされたか。だが、おかげで面白い話をきいたぞ。男爵よ、我慢は禁物じゃ」    3  翌日の早朝、Dは村を去った。その前に、鍛冶屋の店先で主人と別れを告げた。 「達者でな」  と鍛冶屋は消耗し切った顔と声で言った。これに対して、 「世話になった」  とDが返したから驚きだ。  彼は懐から小さな袋を取り出し、中味を鍛冶屋の手の平にこぼした。  黄金の流れがつづいた。 「ちょっと、待ってくれ。これじゃ、貰いすぎだ」  鍛冶屋は不精髭をふるわせて叫んだ。手の平に形づくられた黄金のピラミッドは、最初に彼が要求した法外な額の倍はあった。 「職人の治療代と過重労働への支払いだ」  とDは静かに言った。  昨夜、男爵とともに戻ってきた彼は、職人全員がリタイヤした職場で、ひとり黙々と作業をつづける主人を見たのである。四人で片づけるのもやっとの作業を、彼はついにひとりでやってのけた。 「そうかい、すまねえな。甘えさせてもらうぜ」  照れ臭そうな主人の前で、Dは馬にまたがった。主人は急に憶い出したように、 「なあ、ひとつ注意しとくぜ。最近、この村の北じゃあ、山賊どもが横行して、旅人が何組も殺られてる。しかもよ、それは金品を奪われたり、斬られたりしてるからわかるこって、直接の死因は水死だったり、泥に埋もれて死んだりしてるんだ。そういや、山津波や大雨、落雷もこのところ多いぜ。まさか、山賊どもとは無関係と思うが、気ぃつけてな」  Dは片手を軽く上げた。それが別れの挨拶。 「さよなら、もう会えねえだろうな」  遠ざかりゆく後ろ姿に、鍛冶屋は哀しげな声を張り上げた。その余韻を別の音が消していく。Dと一緒に動き出した馬車の轍のきしみであった。  一時間ほどで峠道にさしかかった。  三メートルほどの幅で、登るにつれて、左手の地面が削られたように細くなり、馬から身を乗り出せば、五、六〇メートル下を走る銀の帯が見える。全長五〇〇キロに及ぶ西部辺境区の大河「メルツ河」の一支流であった。  峠を迂回していく方法もあるが、Dがあえてこちらを選んだのは、追っ手が手を出しにくいからだ。こちらにとっての難路は、向こうにとっても同じことだろう。  夜通し街道を行けば、夜明けにはある場所[#「ある場所」に傍点]に着く。とりあえず、Dが目標とするのはそこであった。  太鼓を叩くような音を近くに聴いて、Dは空を眺めた。  その美貌を翳が刷いた。黒雲が、水に落とした墨汁のように、うねくり広がっていく。  その一角から紫色の稲妻が走った。轟きは後からやってきた。  万物が煙り、篠つくような雨がDと馬車に襲いかかるまで、一分とかからなかった。  並の人間なら、雨具を用意しても、その下の手足が腫れ上がりそうな雨粒の猛打を、サイボーグ馬は難なく耐えて足を運んでいく。  馬上のDも、小春日和の晴天を行くかのように泰然自若たるものだ。  そのとき、背後の馬車から、 「誰か来る」  と声がした。地の底から響くような声は、ひどく低いのに、雨音を貫き、はっきりとDの耳に届いた。男爵の声である。  吸血鬼たる貴族は昼間、自然に眠るよう体組織が要求する。だが、中には例外的に、陽光さえささなければ、バイオリズムの減少は免れないとしても、闇中のごとく行動し得る者もあり、稀少の例の多くの場合、それは大貴族と呼ばれる一族のメンバーに限られる。バラージュ家はまさしくそれに該当した。  不気味な男爵の指摘が、すでにわかっていたのかいないのか、Dはふり返りもせず黙々と馬を進めていく。  背後から二頭立ての白い馬車が追いついたのは、三分後であった。無論、御者はおらず、窓は分厚いカーテンで陽光をさえぎっている。 「あら、思ったよりゆっくりですのね」  白い馬車から洩れる、こちらも陰々たる、しかし、やや華やかさを帯びた声は、ミスカのものであった。 「来たぞ」  と男爵の声がささやいた。苦笑する様が眼に浮かぶような口調である。Dはふり向こうともしない。 「お断りしておきますけれど、私、あなた方のお伴をしようとしてやって参ったのではございません。万にひとつ、その気があったとしても、かよわい女をひとり放逐して行っておしまいになるような貴族とその用心棒——互いの信頼をかかせぬ長の旅を、とても一緒に過ごせる方々とは思えませんでしょう。ですから、ここで出会いましたのも全くの偶然。私に一切の斟酌は無用でございます」  息つぎもせず、それだけを冷静に、一気呵成にまくしたてると、白い馬車はぴたりと沈黙した。  そのまま雨の音と轍のきしみばかりがしばらくつづいて、 「厄介なことになったな」  と青い馬車がDにだけ聞こえるようにささやいた。 「何とかできるか?」  少しの間を置いて、 「できる」  とDは言った。 「どうやって?」 「あの娘がおれの仕事の邪魔をするか、おまえが依頼をしたときだ」  男爵の声は沈黙した。依頼といった言外の意味を察知したのである。 「剣呑な護衛だな」 「俺よりは、女の方が危険物だ。偶然ついてこられるだけでも、生命取りになりかねん。貴族の依頼で貴族を斃すというのはこれで二度目[#「二度目」に傍点]だが、おれは構わんぞ」  貴族といい吸血鬼といっても、相手は十六、七としか見えない花のような美少女だ。それを知りつつこんな台詞を吐くとは、どのような冷厳冷酷な|精神《こころ》の主なのか。 「君も貴族を憎んでいるようだな」  青い馬車は、やや沈んだ声で言った。  そのとき、世界は白く変わった。  稲妻に打たれた木立が横倒しになる。その下から、Dは一気に馬の腹を蹴って前進した。  地が崩れたのは、その衝撃のせいかと思われた。  もとからゆるい地盤に雨が染みこんで、崩壊の危険は十分にあったものだろう。大きく傾いた二台の馬車はついに常態に復せず、滑り落ちる地面もろとも、ゆっくりと峠の傾斜を転がり落ちていく。そして、前進したDもまた、その足下がずるりと山肌を滑って、見事な乗馬姿勢を保ったまま、眼下の銀の河へと落下していった。  待っていたのは、激流であった。堤もない。急な大雨による増水は岸を呑み岩を呑み、ごおごおと天地をどよもして流れつづけていた。Dと馬はたちまち見えなくなり、二台の馬車さえも、何の抵抗もない|函船《はこぶね》のごとく風を切って流れ出す。  それが二、三〇〇メートル先で曲がり角にさしかかったとき——  頭上の岩棚から網のようなものが広がり、二台の馬車と馬とを押し包んだ。  馬車は停止した。  網の端——岩棚の上には強力なウインチが据えられ、二台の馬車は岩壁にあちこちぶつかりながらも、そこへ引き上げられたのである。  ウインチのそばには三人の男がいた。いずれも凶暴そうな顔立ちで、背や腰に武器をくくりつけている。  ひとりがウインチを操作すると、網がゆるんで馬車馬は立ち上がった。  別のひとりがドライヤーみたいな強磁力銃を馬の首に向けて、 「よし、制御チップは壊した」  と残る二人を促し、御者台に乗った。 「しかし、えれえものが手に入ったな」  と青い馬車に乗った男が感に堪えたように言った。 「こいつは間違いなく貴族の馬車だぜ。多分、|内部《なか》にいる」 「昼間なら安心よ。血をすする夢でも見てやがるって」  白馬車の男が答え、手綱をふった。  馬が向きを変え、岩棚の奥を向くと、そこには直径五メートルもある|虚《うろ》が口を開けていた。  そこが彼ら——山賊の棲家か、少なくとも前線基地らしい。 「もうひとり——馬に乗った奴はどうした? 見過ごすのか?」  とウインチのところに戻った奴が激流の方へ眼線を落としながら訊いた。 「|頭《かしら》がそんな勿体ねえ真似をするかよ。ちゃんとこの先に網を張って待ってるさ。身ぐるみ剥いで、お生命頂戴——後に残るは溺死体ってわけだ」  青い馬車の御者は、いとも気楽な風に言い放った。 [#改ページ] 第三章 牙竜の罠    1  岩棚の奥は通路になっていた。自然の洞窟を広げたものである。岩壁のあちこちに、発破と化学溶解の痕が残っていた。  通路の向こうは、ほぼ真円に近い広場であった。直径二〇〇メートルは下らない。周囲は岩山で、空中からのぞかぬ限り人目にはつかないし、街道へは、岩山の南にある、これも自然の路を使う。  野盗たちがここを発見したのは、従って空からであった。旅人を襲うべくアジトを物色中、飛行具で飛び廻っていたひとりが手柄をたてたのである。  膨縮建材でつくった五軒の小屋と倉庫が彼らの王国だった。  広場の真ん中で、二台の馬車を一〇個ほどの人影が取り巻いた。  雨に煙っていなければ、大人でも青ざめそうな凶悪無惨な面構えとわかる男たち——と女が二人いた。 「気象コントローラーを止めたらどうだ、エルデ? 貴族相手は青空の下に限るぜ」  と右眼を赤外線スコープで覆った大男が、女のひとりに言った。ボスである。  女——エルデは左腕に巻きつけたリモコンを右手の指で叩いて、 「また、接触が悪くてね。目下修理中。暗くても貴族は昼間、眠りっぱなしよ、安心なさい」 「何にせよ、川が氾濫したり、洪水が起きて街道がつぶれちゃ、元も子もねえぞ。早目に治すんだ。ベニス、協力してやりな」 「ええ」  ともうひとりの女が固い声で言った。顔立ちでエルデには大分劣る。その辺が原因だろう。  大男は馬車へ顎をしゃくり、 「こんな豪勢な馬車ははじめてだ。さぞや、ご立派な貴族さまとお宝を積んでいなさるこったろう。さ、日が暮れる前にバラしちまうんだ。——かかれ!」  号令一下、それぞれ分解用のメカを手にした男たちが、黒い虫みたいに二台の馬車に群がった。  貴金属や香木をふんだんに使った馬車でも、貴族のものとなると、酔狂な「都」の大金持ちくらいしか買手がないし、運搬も面倒だと言うので、手に入れた連中はすぐ解体に移る。  だが、その二台は彼らの経験の範疇にある品とは少し違うようであった。  六〇〇〇度のレーザー・バーナーを手にした奴が、 「びくともしねえ!?」  と悲鳴を上げ、岩をもうがつ重合金属ドリルの主が、 「歯が折れちまった!?」  と叫んだ。 「えーい、だらしのねえ。こうなりゃ、多少とも、中味を傷めるが仕方がねえ。——おい、発破を仕かけろ」  大男が命じた。手下のひとりが、 「いいんですか? あっしゃ、危ねえと」  と異議申し立てをした途端、大男の拳が躍った。  どぼっ、と泥の中へ何かを突き入れたような音がして、大男の腕は手下の鳩尾に手首までめりこんでいた。  ひとふりで、即死した手下を五メートルも投擲し、雨の中へ手をかざして鮮血を落とすと、 「さっさと用意をしろ」  むしろ低い声で命じた。何人かが倉庫の方へすっとんでいったのは言うまでもない。大男の手からはかすかなモーター音がきこえた。  信管つきの高性能爆薬が一キロずつ二台の馬車の底につけられ、リモコンで火を噴いたのは、三分後のことである。  馬車は跳ね上がり横倒しになったが、すぐに、底部から三本のシャフトみたいな棒がせり出し、みるみるもとの姿勢に戻った。  シャフトを含んだメカニズムは、馬車に本来備わったものではなく、後から加えてある。鍛冶屋苦心の作は、爆薬の衝撃にも耐えたのだ。 「糞ったれが——一〇キロに増やせ!」  とボスが満面朱に染めて叫ぶのに、 「ちょっと、お待ちよ」  声をかけたのは、ベニスだった。馬車を指さし、 「以前、ある旅の鍛冶屋から、貴族の馬車は、衝撃にゃ強いけど、熱には比較的弱いってきいたことがあるわ。焼却弾を使うのよ、頭」  大男がすぐに、 「よし、焼却弾だ」  と命じたところへ、 「待ってよ、頭」  とエルデが意味ありげに声をかけた。 「どうした?」  エルデはちら、と意地の悪い眼線をベニスにあて、 「焼却弾は二万度を超えるのよ、馬車が燃えたら何もかもおじゃん。せっかく峠を崩してまで、お宝を頂戴しようとした苦労が水の泡よ。もっと利巧な手があるわ」 「何よそれ?」  とベニスが前へ出るのを無視して、 「雨降りをやめさせることはできないけど、お陽さまになら化けられるわ。ちょうど修理も済んだし、モードを『太陽光』に変えて、ビームに絞るのよ。照射しながら、少しずつ温度を上げていけば、ちょうどいい焼き加減にできるでしょ」 「そいつはいい」  大男は、ベニスのアイデアなど忘れてうなずいた。 「さすがは、エルデだ。まかせるぜ」 「下がって」  女は左腕のメカを調節しはじめた。  数秒——  眼もくらむ光のすじが天空から二台の馬車を包んだ。その下の岩盤はたちまち水気を失い、光にふれた雨は蒸発した。  熱気と光輝に顔を叩かれ、野盗たちはさらに後じさった。 「七〇〇〇度」  とエルデが眼を細めて言った。 「……八〇〇〇……八五〇〇……九〇〇〇……まだ平気なの?」 「つづけろ」  と大男が命じた。 「……一万……これ以上は危ない。岩盤が溶けはじめたわ」 「かまやしねえ、つづけろ。こうなりゃ、意地だ。落ちぶれた吸血鬼どもに人間さまが舐められてたまるかい」 「……一万五〇〇〇……二万……」  馬車は地中にめりこんでいくように見えた。その通りだった。岩盤は溶解し、蒸気も上げず、煮えたぎる熔岩の中へと二台の馬車を引きこんでいるのだった。  このとき——馬車の中から、かたりという音がした。ロックでも外れたような音が。 「止めろ!」  と大男が怒鳴り、くすんだ空と雨が戻った。同時に、凄まじい音とともに白煙が舞い上がる。熔岩と雨の仕業だった。  灼熱した熔岩に、轍の半ばほど——馬車の底あたりまで埋没させながら、馬車はどちらも支障を来したようには見えなかった。 「一体——何で出来てやがるんだ?」 「今の音は何だい?」  口々に喚く手下どもの耳に、  ぎい  ときこえた。ドアの開く音に違いない。  そして、二台の馬車はどちらも、開かずのドアを開いて、馬車と同じ色をした二つの柩を吐き出したのである。  熔岩の上で漂うそれを見て、大男はエルデへ、 「冷やすんだ、エルデ。早いとこ、冬にしろ!」  と絶叫した。  空気が急に冷え、熔岩の断末魔のごとき蒸気の噴出が終わるまで、一〇分を要した。  ひとりが用心深く熔岩の淵までいって、足の爪先で触れ、手でさわって、 「オーケーでさ」  と告げるや、男たちは柩を取り囲んだ。やっと、という欲望の光の他に、覆いようのない脅えの翳が眼に宿っていた。 「どうして、出てきやがった?」  手下のつぶやきに、 「多分、高温に耐えられなくなった馬車の保護機構が脱出させたのよ。大丈夫、まだ、時間はあるわ。こじ開けて貴族を炭にしちまいなさい」  とエルデが左手のメカをいじりながら言った。 「よっしゃあ」  ひとりがかん高い叫びとともに、両腕をふり上げた。うなりをたてて青い柩にふり下ろされたのは、鋼鉄のハンマーであった。次の瞬間、それは勢いよく跳ね上がり、握った男を大きくよろめかせた。ハンマーを離し、男は手をふるわせて呻いた。 「やっぱり、並の力じゃ駄目か」  大男は血走った眼を柩に向け、ハンマー男のそばに近づくと、落ちているハンマーを片手で拾い上げた。  レーザー・バーナーを構える手下をどかし、柩の横でハンマーをふり上げた。  両腕がモーター音をたてた。  風を切る速度もうなりも、最初の一〇倍はあった。  どおん! と鳴った。爆発を思わせた。  歓声が一同の間を渡った。  柩がへこんだのだ。  大男は再びハンマーをふりかざした。彼の両腕はスチール製の骨を高分子筋肉でくるんだ人造の剛腕だったのだ。制御は肩の電子神経コントローラーが行い、内蔵の作動用モーターは、一〇〇〇馬力の出力を絞り出す。  二撃目がさらに深く柩の蓋をくぼませたとき、手下たちはもう声を上げなかった。  貴族の柩の|内部《なか》が見られる。——感じたこともない興奮と好奇心のオーラに全身を包まれていた。  貴族と人間との戦いの歴史を肌で感じてきた者はともかく、それ以外の人間にとって、貴族の柩を開くということは、いわば神聖の禁を犯して聖地に忍び入る背徳行為を意味した。性的な意味もこめられているかも知れない。  人工の花や霧に包まれて眠る貴族たちの典雅優美な姿。男は黒衣、女はドレスがほとんどだが、女の場合、うすもの一枚のときも、全裸のときもある。貴族の奔放さのなせる業だ。万にひとつ、柩を破られ野卑な人間どもの眼にさらされた場合、その妖艶な肢体が、ふりかざされた杭や刃を防ぐ最後の砦となる。一生かけても巡り会うことのない美貌、濡れて喘ぐような半びらきの|朱唇《しゅしん》、豊かな乳房、くびれた腰から腿にかけての淫らさは言うまでもなく、白蝋のごとき肌の下を青い蛇のごとく這う血管が、|狩人《ハンター》たちの脳を衝撃し、殺戮の手を止めさせるのだ。彼らは魅入られたように動かず、美しき吸血鬼を眺めつづける。五分が一〇分、一〇分が一時間——やがて、時はたち、陽光は力を失い、空には青いたそがれが広がって、ふと気づいたときには、柩から起き上がった貴族の顔に真紅の光芒が映えている。その眼にあらためて吸いこまれた瞬間、彼らは人間としての理性のすべてを忘却し、貴族の血の餌食と化すしかない。  野盗たちもその恐怖は知っていた。だから、柩がくぼんだときも、全員が山刀や用意した杭を構えた。蓋を開き、間髪入れず、中も見ずに打ち込むのだ。  それでいてなお、うす目を開けている奴のいることが、貴族の柩の中味に対する淫靡な欲望の強さを物語っていた。 「はおっ!」  怒号に近い掛け声とともに、大男はハンマーをふり下ろした。  その刹那、ばっと柩の蓋が開いた。さすがの大男も渾身の力をこめたハンマーを止めることはできず、鉄の塊は柩の内部へ吸い込まれ——かけて、その寸前で停止した。  青い上衣を着た腕がハンマーの軸を握りしめていた。  都合二〇〇〇馬力のパワーが集中された落下を一本の腕が押さえ、あまつさえ——おお、ゆっくりと上がりはじめたではないか。起き上がってくる青い影とともに。  影が出た。肩が出た。それから、ぐいと立ち上がって全身が現れても、大男はハンマーを離さなかった。  蒼白い貴公子の美貌を前にして、脅えもした。太陽が出ていないとはいえ、真っ昼間、柩から出てくる貴族など、初耳だったからだ。現に手下どもは声もなく凍りつき、何人かは腰を抜かしてへたりこんでいる。だが、巨躯をふるわせているのは、まぎれもない炎のような敵愾心であった。 「よお」  と大男は言った。静かに見つめるバラージュ男爵の両眼は氷のようだ。まだ寝足りないとでもいう風に。 「おれはドゴマってんだ。ケチな強盗よ。こんな時間に貴族と会えて光栄だぜ」  男爵の唇がすぐに動いた。 「私はバイロン・バラージュ男爵だ」  その瞬間、大男はハンマーが自由になったのを知った。跳びはねながらハンマーを投げつけ、腰の山刀を抜いたのは、野盗のリーダーにふさわしいスピードと技であった。  ハンマーは、ものの見事に男爵の額に命中し、彼をよろめかせた。——と見た刹那、大男は猛然と地を蹴った。  腰だめの山刀が狙ったのは心臓。間違いなく、それは貫いた。  眼の前に美しい顔があった。なんという艶やかで孤独で残忍な微笑か。 「よくやった」  その声に、恍惚となりながら、彼はふり上げられる男爵の右手と、その先の黒いハンマーを見た。  反射的に左腕をかざして防いだ。人工の腕は守りにも一〇〇〇馬力のパワーを発揮するはずであった。  鉄の塊は腕に落ちた。火花が飛んだ。筋肉は弾け、骨格の砕けた腕を電子の火が彩った。  ひん曲がったハンマーが上がった。大男は右腕で受けようとしたが、山刀から離す分、遅れた。  どしゅ! と鳴ったのは、頭蓋が粉砕された音であった。血と脳漿が飛び散り、遠巻きにした手下どもの身体に勢いよく跳ねかかった。  それで全員が我に返り、 「野郎!」 「化物!」  武器を閃かせて殺到しようとした瞬間、男爵のマントが魔鳥の羽根のように左右へ広がるや、その両脇から凄まじい光が尾を引いて手下どもの間を走り抜けた。  空中に首が飛び、少し置いて血の噴水が上がった。首無しの胴が倒れたのは、そのさらに後であった。  少し離れたところに、女ふたりが残った。なぜか、男爵の殺人光はそちらへ流れなかったのである。  エルデとベニスは蒼白の顔を見交わし、エルデが右手の気象コントローラーに左手をあてがった。  雨は|熄《や》めさせられないが、陽光なら降らせる。男爵がそちらを向いた。 「ひい!?」  恐怖の叫びが終わらぬうちに、彼は跳躍し、エルデの眼前に立っていた。  錯乱が女を襲った。コントローラーのことも忘れて身を翻そうとする、その心臓を、背後から鉄の刃が貫いた。 「ベ、ベニス……」 「こいつはあたしが始末する。あんたは先に地獄へいきな!」  いままでの仲間を突きとばすのと、腕のコントローラーを剥ぎ取るのと、同時にベニスはやってのけた。  男爵の動きは、倒れかかったエルデの身が封じた。  コントローラーの操作法はベニスも熟知していた。エルデが斃れたときの用心に彼女も覚えさせられたのである。確かにエルデは斃れた。 「貴族の宝はみんな、あたしのものさ。『都』へ行って売りさばいてやる!」  雲間を縫って降り注ぐ太陽光——そのスイッチを押そうとした腕が、ひんやりと止められた。白い指が、背後から手首に絡んだのである。  もうひとつの柩がある、と気づいたのは、首すじに氷のような、しかし、やわらかな唇が押しあてられたときだ。 「よせ!」  と男爵が叫んだ。 「一緒に来れなくなるぞ!」  そのことが貴族の本能——吸血への渇望を押しとどめた。 「畜生!」  ベニスはミスカの手をふり放し、勢い余ってつんのめった。  そちらをにらんだミスカと男爵の頭上から、まばゆい光が降り注いだのである。    2  陽光の下で二人は棒立ちになった。 「くたばれ、死んじまえ!」  コントローラーのスイッチへ指をあてたまま、ベニスが絶叫した。 「塵になれ、土に帰れ!」  このふたことは、貴族崩壊に際して、人間たちが必ず口にしたといわれる決まり文句だが、こう言い切った瞬間、ベニスの腕はコントローラーごと真っぷたつにされて、片方が地に落ちていた。  陽光は消えた。  土砂降りの下の生ける影は四つ。——増えたというのか、減ったというのか。  崩れるミスカを抱き止めて、青い貴族は雨に煙りつつ近づく黒衣の影を見た。  血の海の中をのたうつ野盗の女へ、慈悲のかけらもない一瞥を与えて、 「間に合ったようだな」  Dは一刀を鞘へ戻した。  土砂降りの中に立つ天人のごとき三人の男女は、見るものがいれば、雨を忘れ去るほど美しかった。  野盗の残りは無論、Dをも襲ったのだ。その結果は言うまでもあるまい。ひとりを捕らえてこのアジトの位置をしゃべらせ、彼は急行したのである。  |酸鼻《さんび》としかいえない現場よりも、Dが視線を止めたのは、男爵とミスカの口もとであった。  それから、血と雨しぶきの中に倒れた野盗たちを眺めたが、何の感慨も眼に浮かべず、 「柩に入れ」  と言った。 「D——話がある」  と男爵は言った。 「この娘は血を——」 「報酬は倍になる」  とDは二台の馬車の方へ歩きながら言った。 「どちらが払う?」  ミスカの表情に喜びの色が湧いた。 「私が」 「いや、私が払う」  こう言って、男爵はミスカの肩を抱いたまま、静かにDの後を追いはじめた。  血桶をぶちまけたような世界で、二人の貴族が人間の血を吸わずに耐えたことを、Dは見抜いていたのである。  黄土色の土地に、白々と無愛想につづくリボンのような街道のそこだけ、華麗な花が咲いたようであった。  |七彩《なないろ》のドームを半分に割ったようなテント——というか陽よけが道の脇に設けられ、その中に黒い燕尾服にシルクハットをかぶった長身の老人が立っている。赤い宝石をアレンジした蝶タイよりも目立つのは、胸もとまで垂れたところで、ひょいと跳ね上がっているどじょう髭であった。  人通りの少ない中央街道も、このあたりは村と村との間が短いため、人の往来も多く、テントの周囲には一〇人近い男女が集まっていた。子供も二、三人いる。 「さあて、遠くから来た人も、近くに住んでる人もよくごらん。目の前にいるのは世界一の魔術師——街道をねぐらに活躍する、人呼んで“|街道魔術師《トレイル・マジシャン》ヨハン卿。村でも町でも、いいや、『都』でも見られない、街道だけの魔術を、いま、ごらんにいれよう、さあ、料金はわずか一ダント。そこの娘に渡しとくれ」  言われて、人々は白い手袋をはめた指がさすテントの片隅に気づく。  どよめきが湧いた。  こんな娘がいたんだ。なんてきれいな、哀しそうな娘だろうか。  魔術師の弟子にふさわしく、大きくスリットの入った黄金のドレスを着た娘は、白い腿をなまめかしくちらつかせながら、客たちの間を廻り、もうひとつのシルクハットに硬貨を回収していった。ドレスよりもまばゆい黄金の髪が腰のあたりでゆれている。  こんな娘がなぜ、辺境の道のかたわらで、うらぶれた魔術師の助手を?——と人々は考え、ヨハンの手品がはじまるや、たちまち、その虜になった。  白く長い指が閃くや、五指の間に四色の|球《ボール》が出現し、かけ声ひとつで四人のなまめかしい美女に変わった。その全員がいま料金を集めに来た娘だと気づく前に、美女群は金属の鎧に身を固めた武者となり、歓声の中で巨大な爬虫類に変貌するや、手近の客を頭から呑みこんだ。  あまりの生々しさに、客たちが声もなく立ちすくんだ瞬間——  恐怖の対象は跡形もなく消え去り、そんなものは最初からいなかったよとでもいう風なテントと人々が残された。  正午近く。  昨日の大雨が夢のように乾いた街道には、白い陽ざしと——轍の音が。  そちらを向いた人々はほとんど眼の端に栗毛色のサイボーグ馬にまたがった黒衣の若者と、その背につづく二台の馬車を見た。  若者の美貌に、人々は黄金の娘のことも忘れた。娘さえ若者に魅入られたようであった。 「ごらんになりましたかな? 美しい旅のお方?」  とヨハンが大仰な身ぶりで呼びかけた。  黒衣の若者は前方を見たまま歩き去った。  その背後につづく二台の馬車が貴族のものらしいと気づいて、人々がざわめきはじめたのは、若者の印象はうすれず、その妖気だけがまぎれた数分後のことである。  それを待っていたかのように、ヨハン卿はどじょう髭の一本をひねくりひねくり、ざわつく客たちに、こう話しかけた。 「さて、みなさん、魔術の極意というのをご存知か。それは、まず、相手の注意を魔術からそらすこと」  小さな村をすぎてから一時間ほどして、Dは馬を止めた。  前方の大地が灰色に変わり、あちこちに銀色のナメクジみたいな光沢が映えている。  道の左右に黒々とわだかまっている木々もまばらになり、ひょろひょろと細っこい影が、思い出したみたいに伸びているきりだ。  何よりも不気味なのは、その土地から噴き出す|瘴気《しょうき》のせいか、陽光さえねじ曲がって、遠くの風景が近くに見えたり、近くのものはひどく歪んで視界から外れようとする。  この地方の名物の東西五〇キロ、南北二〇キロに及ぶ大湿地帯であった。  あちこちに有毒ガスの噴き出る土地や、大の男も丸のみにする大怪魚も潜んでいるという。  左手に木でこしらえた棧橋が湿地の上に突き出ていた。人影が二つ、その周りに立っている。  Dは近づいていった。  細木のようにスマートな少年と、まん丸な少女の組み合わせには、顔を見るまでもなく、姉弟と思わせるものがあった。年の頃はどちらも十一、二。足下には古びた旅行鞄が四つ置いてある。  Dに気づいてどちらも夢みるような顔つきになり、Dが馬から下りると、もっとぽう[#「ぽう」に傍点]となった。  棧橋の後ろに設けられた休息所の壁に、時刻表らしい鉄の板がかかっている。  五、六メートルの距離があり、文字自体、虫メガネでも欲しいくらいのサイズなのに、後二分と読み取ってDは納得した。 「あのお」  と太った女の子が話しかけてきた。頬が染まっている。 「どこまでいくんですか?」  Dは、いまにも落ちそうな頬っぺたへちら[#「ちら」に傍点]と眼をやり、 「北だ」  と言った。他人の質問に即答するなど、考えられないことだ。 「あっ、おんなじ」  少女は胸の前で両手をよじり合わせた。Dを見つめる瞳に星が光っている。  とととと、と少年のところへ走っていき、Dの方を指さして何やら言うと、また両手をねじり合わせ、今度は二人してやってきた。 「すっげえ刀」  さすがに、男の子の反応である。 「お兄さん——戦闘士? それとも、用心棒かい?」 「外れだ」  と、Dはまたも考えられないことをした。 「じゃないとすると——ハンター?」 「………」 「うわあ、本物だよ、お姉ちゃん」  星の光る瞳は四つになった。 「へえ」 「へえ」  と感心しながら、Dの周りを歩きはじめる。それが実に身の毛もよだつ危険な行為だと知るはずもなく、はためには、ほほえましい船着き場の一景としか映らないはずだ。 「お兄さん、おいらたち、『都』へいくんだぜ」  と少年が胸を張って言った。 「何しに行くと思います?」  と、これは少女の方だ。 「さて」 「これよ!」  弾けるような声が逆しまに流れた。分厚いオーバー姿のまま、少女は鮮やかな後方宙返りを見せたのである。  その頭上を両脚を抱えた影が軽やかに跳んだ。少年であった。着地の寸前、どちらからも両手が伸び、触れ合った刹那、二人はともに空中に跳んでいた。  惚れ惚れするような軌跡を描いて交差し、そこからまた跳ね上がったのは、身体のどこかにエネルギー保存の法則に反する仕掛けがあるにせよ、鮮やかとしかいいようのない軽業であった。ひょっとしたら、手と手が触れ合う限り、この姉弟は地上に降りずにすむのではなかろうか。  天の存在が繰り広げるのかと思われる曲芸は、意外と短かった。  湿地帯の奥から、瘴気を貫いて、一台の大型ホバークラフトが現れたのである。船底から噴き出す空気が泥土を派手に跳ねとばし、速度は一〇〇キロ近い。  地上一〇メートルの高みから音もなく着地し、姉と弟はDのかたわらに駆け寄った。 「どうだった?」 「どうだった?」  期せずして同じ問いを発したのは、やはり姉弟である。 「見事だ」  とDは言った。二人の芸よりもこっちの方が奇蹟に近いのだが、二人は素直に喜んだ。  白い靄が押し寄せて三人を包んだ。瘴気を押しのけて、ホバークラフト——湿地帯用の渡し船が棧橋に着いたのである。  人間なら一〇〇人、馬車なら二五台までオーケイの大型船である。商人らしい客が四、五人、先に棧橋へ降りた渡し守の老人に挨拶して下船した。全員がDを見て口を開け、背後の馬車に気づいて蒼白になるのは、なかなかの見ものだった。 「さ、さ、乗った乗った。一〇分後に出発だよ」  と白髪の渡し守が|胴間声《どうまごえ》を張り上げた。    3  動き出して一〇秒もしないうちに、岩も棧橋も白いベールの向こうに消えた。  Dは最後尾で、船首にある運転席と、渡し守に何やら話しかけている二人の子供へ眼をやっていたが、そこへ、 「沼を渡っているのか?」  と青い馬車が話しかけた。 「湿地帯だ。休んでいろ」  とDは答えた。  柩に収まり、馬車に乗っていても、男爵には状況がわかるらしい。監視用のTVなら、沼とは言わないだろうから、貴族の超常能力であろう。 「他に三人……二人は子供だな」  その声の響きに何を聴きつけたか、Dの顔に凄絶なものが宿った。 「約定をたがえるなよ」  と言った。 「わかっている。安心したまえ」  と答えて、馬車の主は、 「余計なお世話だろうが、敵には狙い目かも知れない。空を飛ぶ奴がいた」 「承知だ」  とDは応じたが、はて、どのような目算があるのか。湿地帯とはいえ、その底は測り知れないほど深く、ひとたび船から落ちれば、馬車も柩もふたたび浮上するとは考えられそうにない。そして、いかにDといえど、四方を泥濘で囲まれたこの状況で、空から襲いかかる敵への対抗手段は擁しているはずがない。  そのとき、右舷前方一〇メートルほどのところに横たわっていた倒木らしいものが不意に直立するや、まるで、びっくり箱の|発条《ばね》じかけ人形みたいに、しゅうとこちらへ伸びてきたのである。  姉弟がきゃっと叫んだ。木としか見えなかったそいつの先端には、吸盤のような口と、三つの眼があった。 「うお!?」  と放って渡し守が舵輪を切る。そいつに泥濘を浴びせかけつつ、船は左へ折れた。  どちらが速い? そいつの口が、少年の頭上へ——船が曲がる。  そいつを中心に三つの影が走った。小さな二つは後ろへ、黒い影は前方へ、そして、閃光が迸った。  両断された頭の方が、どんと音を立てて床板に激突し、首の方が鞭みたいにしなる。  空中にぱっと青黒い血の花が咲いて、それが冬の怪異な驟雨のごとく降り注いできたとき、船はすでに猛スピードでもとの方角へと遠ざかりつつあった。 「お、おまえさんたち、一体、何もンだ?」  舵輪を握る船長がこう訊いたのも無理はない。 「見ての通りの軽業師よ」  と娘が両手を広げ、慇懃に礼をした。 「いままでいた小さなサーカスから『都』の曲馬団に呼ばれたのさ」  と少年が胸もとに手をあて頭を下げる。 「『都』へねえ」  こんな仕事をしているだけに、度胸は十分過ぎるくらいなのか、感心したような老人の声はもう普通と変わらない。 「しかし、辺境を子供たち二人っきりてのもなかなかある旅じゃねえ。両親はどうした?」 「とっくの昔に死んじゃったよ」  と少年が答えた。暗さは微塵もない。 「そうか。そりゃ余計な質問をしちまったな」  と老人はにんまりと笑い、 「ところで、あんた」  とDの方を向いた。少年と少女は、尊敬を通り越した、恋情といってもいい眼差しを当てている。  老人が言葉をつづける前に、 「安全なルートを走るはずではなかったのか?」  とDが訊いた。 「いや、それが——いつものコースなんだよ。言わば、あいつの方がコースを外れたんだな。滅多にねえこったが——安心してくれ、そうは起きるこっちゃねえ」 「危ない奴らの巣はあるのか?」 「ああ。もっと東にな。大丈夫だ。まさか、こっちには」 「この先に危険なものは?」 「そうだな。シュトルムか」 「それは?」 「心配しなさんな。まだ時間はたっぷり——」  と言いかけて、老人は息を呑んだ。  前方に黒い倒木が浮かんでいる。それも一本や二本ではない。視界いっぱいにうようよと—— 「そんな——馬鹿な!? 奴らの巣はずっと東のはずだ」 「下がれ」  とDは子供たちの手をとった。 「もう間に合わねえ! ゆっくり抜けるぞ。口をきくな、息もするな!」  最後のは無論無茶だが、老人にしてみれば、嘘いつわりのない真情だったろう。  いまや、黒い倒木——あの首長竜どもの大群のど真ん中に入りこんだ船は、空気噴流も停止し、底部からせり出した|浮き《フロート》とガソリン・エンジンによる微速運行に切り替え、それこそ波風も立てないようにのろのろと進んでいった。  Dはともかく、姉弟と渡し守は顔面蒼白、恐怖に凍りついているのは無理もないが、そんな恐怖の対象から眼を離さない子供たちは、やはり、辺境の人間というべきだろう。  一メートルとはいわない——舷側から三〇センチ先の泥土と水たまりには、黒光りする奴らが蠢いているのだ。  ほとんどが身動きもしないが、時折、一匹がもそりと身をくねらせると、周囲の何匹かもそれに応じて蠢き、不気味なあぶくが泥土を弾いて、船内にも|飛沫《しぶき》をとばす。  虎穴に入らずんば虎児を得ずというが、これは虎児を得るどころか自分の生命を守るために虎穴へ——それも何百頭もの飢えた虎の巣へ分け入っていくのに等しい。実際、どれほどの音や衝撃で奴らが眼を醒ますのかはわからないが、渡し守にしてみれば、いま鳴っているエンジン音、船のたてる波がほんの少しでも強まれば、化物どもが一斉に襲いかかってくる気分であったろう。  船は進む。  かすかなエンジン音と引き起こすさざ波に運命を預けて。  一〇分……二〇分——渡し守が、低く、おっと叫んだ。  約一〇〇メートル前方——奴らはもういなかった。黒い泥土と銀色の水の広がりだけが眼に入るすべてだった。  姉弟が無言で抱き合う。二人の手はなおもDの手につながっていた。 「おっ!?」  また渡し守が洩らした。今度は別の響きがあった。  不気味な水路の切れる地点——黒い泥土の上に、ぽつんと人間が立っていたのである。  それは、葡萄酒色をしたマント状のもので首から下を覆った男であった。顔がひどくうすい。  もしも、柩の中の男爵がここにいたら、最悪の予想が適中したと認めたことだろう。Dが地中の敵を仕留めた晩、空から男爵を襲ったのは、この男であった。 「刺客か?」  とDが訊いた。  それは確かに前方の男の耳には届いたらしいのに、姉弟はちょっと変な表情でDを見たきり、渡し守にいたっては気がつきもしなかったのである。 「その通りだ」  と男は言下に答えた。 「俺の名はヒチョウ。おまえの後ろの馬車の主には一度会った。今が二度目——そして、三度目はないぞ」 「この生物がこんなところにいるのは、おまえの仕業か?」  とDは訊いた。出口まであと七〇メートル。 「その通り。渡し船のルートに、そいつらの好物をバラ撒いてやったのよ。よくここまで来た。だが、これで終わりだ」  ヒチョウが両腕を広げた。マントが広がった。それは、巨大なワイン・カラーの羽根であった。  その内側に光る円筒を見た刹那、 「全速前進だ!」  とDは命じた。まだ、悪鬼の巣を抜けてはいない。それなのに、渡し守は、妖術にでもかかったみたいに従ったのである。  エンジン|態《モード》がチェンジされ、ホバークラフト機能が回復すると同時に、ジェット噴流のごとき空気が、船体に一メートルの高度と一二〇キロの速力を与えた。  船が突進した瞬間、男の円筒が白煙と炎を発した。  間一髪で、ミサイルは船のいた位置に吸いこまれ、轟きと水柱を天高く噴き上げた。  世にも不気味な鳴き声が上がった。次々と空中に鎌首を伸ばして、怪物たちは眼下を|睥睨《へいげい》した。  ヒチョウが二発目を射つ余裕はなかった。  怪物どもに首を下げる時間さえ与えず、ホバークラフトはヒチョウに激突した。  衝撃はなく、葡萄酒色の色彩が空中へ舞い上がる。  それが垂直ではなく、横へとんでからであったためか、Dの抜き打ちも一瞬及ばず、間髪遅れて投じられた白木の針も危なげなくかわして、ヒチョウは文字通り飛鳥のごとく、地上二〇メートルまで上昇、停止したのである。  その両脇の下から炎と白煙がとんだ。 「うおお!」  と渡し守が舵輪を操り、これも数十分の一秒の差で、ミサイルは船尾に命中した。  手すり部分が吹きとんだだけで済んだのは、ミサイル自体が小型なのと、船長の力量だろう。  だが、二台の馬車はぐらりと傾き、白い車体が船尾へとずれたとき、破壊部分の幅が馬車の幅よりも広いと見てとって、姉の方が、 「危ない!」  と声をふり絞った。  Dが稲妻と化して跳び、青い馬車の先頭の馬——その手綱を掴んだ。  青い馬車が前進し、白馬車もそれに従う。  その頭上へ、三方から黒い首と吸盤が下りてきた。  馬を押さえたまま、Dは一刀をふるった。  そんな状況でも吸血鬼ハンターの技は正確無比。どの首も落ち、ひとつが船の中を船首の方へ転がっていった。  Dが走ろうとして——船尾が大きく沈んだ。馬車がまたも下がり、馬を引き止める——Dの動きは止まった。  悲鳴が上がった。  転がっていた生首が、だしぬけに跳ね上がるや、例の吸盤を老渡し守の左肩に吸いつけたのである。 「ぐおおおお」  とのけぞる老人の顔が、見る見る皺だらけのミイラ状に変わった。こいつらは、生物の体液を常食とするのだ。  びゅっ、と白木の針が空を切り、化物の脳天を貫いた。  それが離れるのと同時に船長は倒れ——また起き上がった。  必死で舵輪にしがみつき、左へ廻した。比較的奴らが少ない水路を縫うしかない。すでに、前方は絡み合う首で塞がれていた。  渡し守の神技か、黒い首が林のごとく屹立する中を船は何ら停滞することなく進み、ついに、その巣を脱した。 「やったあ!」  と、少年が叫んだのもむべなるかな。  だが、すぐに、今度は少女が、 「追っかけてくるよ!」  船尾を向いて恐怖の悲鳴を放った。  水中の胴体はどのような形状なのか、そびえる首どもは、約六〇度に自らを傾斜させ、時速一〇〇キロの船にも負けないスピードで追いすがってくるではないか。猛速のせいか、船は激しくゆれ、跳ね上がり、馬車を支えたDも為す術はなかった。 「船長さん——追いつかれちゃうよ!」  と姉が叫ぶと同時に、船の動きが変わった。渡し守のせいではない。泥水に変化が生じたのだ。 「あ、あ、あ、あ——っ」  姉か弟か——どちらにしても、人間の出したものとは思えぬ恐怖の叫びであった。  見よ、泥沼が旋回している。その縁は直径一〇〇メートルに及び、なおも広がり、それに応じて内側——漏斗状の斜面はその深さと角度をひたすら増して、船はその上端近くに遠心力によって貼りついているにすぎなかった。  これか。老渡し守の言っていたシュトルムとはこれか。  潮の満ち干にある条件が加わって生じる海の大渦が、ここでは泥土の上で起きるのだ。  そして、怪物の巣を抜けるために要した時間と逃亡に移った方角とが組み合わさったとき、船はまさしく、泥の大渦のど真ん中にとびこんだのである。  いや、船ばかりか、迫ってきた黒い首どもが、互いにねじくれ、のたうちつつ泥斜面を滑り落ち、次々に漏斗の底へ吸いこまれていくのは、身の毛がよだつどころか、喜劇的にさえ思える戦慄の光景であった。  頭上から笑い声が降ってきた。  眼を上げて、Dと姉弟は、渦の縁から約五メートル、船からはほぼ一〇メートルの高さに浮かぶマント姿を見た。  どのような力を備えたマントか、羽搏きもせず、ヒチョウは宙に浮いている。 「どうだ、D。すべてはおれが仕組んだ罠。あの化物どもを戦わし、その船を投げ入れて時間を使わせ、ミサイルまで射ちこんで、まっすぐここへ辿り着けるよう、奴らに道を開けさせてやったぞ。その苦労を思いながら、泥の底へ沈んでいくがいい。それとも、見事脱け出してみるか」  ヒチョウは身を曲げて哄笑し、 「おまえたちがここを脱け出す方法はただひとつ。おれのこのミサイルを渦の中へとぶちこむことだ。底が変形すれば、泥の流れも変わる。海とは違うでな。しかし、ミサイルは、いま、おまえたちに進呈しよう」  ヒチョウの腋の下で、銀色の円筒がこちらを向いた。いかにDといえど、この運命から逃れる術はもはやあるまいと思われた。  そのとき——  二つの影が空中に跳んだのだ。いや、船は斜面に吸いついているから、正確には斜め上方へ舞い上がったことになる。  影と影とは宙の一点で接触し、そこからもう一度跳ね上がった。その先にまさか自分がいるとヒチョウが夢にも考えなかったのは、二つの影があまりに素早かったのと、こんな技を使う人間が船にいるなどとは、夢にも思わなかったためだ。  一瞬、三つの影はもつれ合い、ミサイルが火を噴いた。  弾道は渦の中心へ走った。  黒い水柱——いや、泥柱が立ったかと思うと、あっけにとられるスピードで渦は速度を失い、斜面は盛り上がって、船を水面に押し上げた。  そこへ落ちてきたのは、三つ巴の影。  迎え討つはDの一刀。  姉と弟にはかすりもせず、ヒチョウだけを胴体の真ん中から輪切りにして、天翔る刺客は、赤い墨のような鮮血を撒き散らしつつ、泥海の中へ真っ逆さまに墜落していった。 [#改ページ] 第四章 タロスの武器庫    1  水竜と大渦に加えてヒチョウの攻撃からも逃げ切ったボートが、対岸の渡し場に着いたのはそれから三〇分後だった。  二台の馬車と子供たちが下船したのを確かめてから降りようとするDへ、 「生涯の語り草になるぜ」  船長がもごもごと告げた。 「けどよ、みんなと船を救った本当の英雄はあんたじゃねえ。わかってるだろうけどよ」  船長の視線の先に、二つの小さな影がトランクを提げてぼんやりと立っていた。 「あんたに送ってけとは言えねえが、せめてあの子たちが馬車に乗るまでついててやれよ。え、健気なもんじゃねえか」 「先を急ぐ」  Dの声は冷やかであった。 「馬車は夜にならなきゃ来ねえんだよ。その間、まともな人間ばかりがやって来るとは限らねえ。わしもすぐ引き返さにゃならん」 「行くがいい」  と告げて、渡し板を踏んで岸に降り立ったDの背に、 「なんて冷てえ。——貴族みてえな野郎だ」  老人の声が突き刺さった。  姉弟のところへ近づき、 「よくやった」  とDは言った。みるみる頬を染める子供たちから眼を離し、馬にまたがった。  馬車を後ろに街道の方へと歩み出した黒衣の若者を、姉と弟は黙然と見送った。悲しくはなかった。父も母もいない。はじめての別れではなかった。 「また、会えるのかなあ」  少年がつぶやいた。答えはわかっていたし、求めてもいなかった。 「あの人といたことは忘れよう。ね?」  姉の言葉に少年はうなずいた。姉の方が百倍も辛いとわかる年頃ではなかったが、他には何もできなかった。  せめて—— 「こっちを向いてくれないかなあ」  二台目の馬車の後部がゆるやかな坂を登りきり、若者の姿はもう見えなかった。 「誰とも無縁の人よ。ふり返りなんかしない」  少女は坂の登り口に立つ傾いた道標を見ていた。『都』までの距離がひどく遠く感じられた。  それから空を見た。夕暮れまでまだ時間がある。それがひどく近くに感じられた。 「もう見えぬか?」  青い馬車の|内側《なか》から漂ってきた声へ、 「気になるか?」  とDは応じた。 「夢うつつに戦いを見ていた。——我らが無事だったのは、あの姉弟の手柄だ」 「なら、礼を言ってきたらどうだ?」 「馬鹿なことを」  吐き捨てるような侮蔑の言葉は、ミスカのものであった。 「たとえ、落日のときを迎えようとも、我らは貴族。人間どもに頭を下げるなど、血の一滴まで絞り出しても|肯《がえ》んじようか。ほほ、おまえのごとき出来損ないにはわからぬ感情じゃ」  その声が、|魂消《たまぎ》るような悲鳴に変わった。  四頭の馬が、突如、棒立ちになったのである。  一秒とかからずもとに戻ったが、ミスカの悪罵はもうきこえなかった。手綱さばきひとつで馬たちを直立させたのがDの仕業と直感したのだろう。 「口を慎んだ方がいい」  と男爵の声が、生真面目な調子で言った。 「彼が義務を果たすべき相手は、まず私だ。君ではない」 「何ということを。私より、血の汚れたこのハンターの肩を持つおつもりですか」 「事実を伝えたまでだ。彼の内部に流れる血が誰のものかは知らんが、その技倆、|精神《こころ》の在り方——こんな場所をうろつくのがふさわしいとは思えん」 「気が弱くなられましたな。ダンピールごときにおべっかを使いなさるとは」 「事実を告げたまでだ」  と男爵が強い口調で宣言し、口論を打ち切った。  代わって、 「一キロほどで、タロスの武器庫だ」  とDは言った。 「まさか——あそこへ立ち寄ろうというのではないでしょうね?」  ミスカの声が不安を|揺曳《ようえい》させつつ加わった。 「この近くは妖物が多い。あそこだけが安全だ」  とD。 「このまま進んだらいかが? そのための護衛のはずよ」 「船の上の戦いで、馬の蹄鉄が外れかかっている。手当てしなければならん。その間に大型妖物に襲われると厄介だ」 「我慢しよう」  と男爵の声が、またも論争に|決着《けり》をつけた。  今度はひどく身近——御者台の上からした。 「馬車はまかせたまえ」  手綱を手に馴染ませながら、青白い貴族は周囲を見廻した。 「|内部《なか》にいろ」 「日暮れが待ち遠しかった。息が詰まる」 「おかしな貴族じゃな」  と言ったのは、無論、Dではない。  貴族の寝所どころか、時によっては住居や避難ポッドにすらなる柩の内部には、過ごしやすいよう、技術の粋が集められている。  五〇年ほど前に行われた廃墓地の一斉調査では、三次元空間拡張回路を取りつけた品が二百個近く出土し、人々の眼を丸くさせた。うち数個は、当の貴族がいないにもかかわらず順調に作動をつづけており、柩内の大庭園に紛れこんで永久に地上から消滅したり、果てしない海洋の真ん中にとびこんで溺死した調査団員の例は、枚挙に暇がない。生まれてから一度も柩から出てこない貴族もいると、記録にあるくらいだ。バラージュ男爵の柩がどのような品かは知らず、その持ち主が変わり者なのは確かだった。  道の右方から、闇が固まったような巨大な城塞が迫ってきた。影に触れただけで跳ねとばされそうな重量感は、道ゆく者ばかりか、跋扈する妖獣たちも脅えさせるに十分な迫力を備えていた。  大のおとなほどもある鉄鋲を打ちつけた大門の前で、Dと馬車は停止した。城塞といったが、それは道に面した大門とそれを支える部分だけで、本体は背後にそびえる岩山の内部に包含されている。  見上げれば、壁面は雨風に打たれてざらつき、虚ろに開いた眼のような銃眼にも通路にも人々の姿はない。遥か銀河からの声を聴こうと天を仰ぐパラボラ・アンテナだけが月光にかがやき、それだけに荒涼の度はいやます。 「我々は奇妙なことをする」  壁面を見つめていた男爵がつぶやいた。 「一万年も錆ひとつつかぬ金属を発明しながら、なぜ朽ちる石を外界との接点に使う? まるで、滅びを望むかのように」  美しい男たちは月光の下にたたずんでいた。風が鳴っている。  夜明けはいつか。——Dは馬を下り、大門の横にある開閉装置に近づいた。  錆びた鉄の蓋を開け、じっと眺めていたが、指も触れずに大門へ向かった。 「照合キイがなくては無理だろう。裏へ廻るか」  男爵が声をかけた。 「門は開いている」 「それでも無理だ。門は五万トンもある液体金属だ。外からの力ではどうにもならん」  男爵は御者台に備えつけてあるラッパ銃を取らず、すぐ横の短槍を構えた。  軽くふったとしか思えないのに、槍に与えられたのは飛燕の速度であった。  それはほぼ柄の部分まで鉄鋲の門にめりこんだのである。まるで水に突き刺さったような手応えのなさであり、貫通部分からは、確かに波紋のようなものが表面に広がっていった。  瞬きをふたつするうちに、槍は吐き出されていた。  門を構成する液体金属は、加えられた力の逆方向へ流動するのだった。あらゆるエネルギーはそこで送り返され、門には傷ひとつつかない。いや、自ら修復してしまう。 「見ての通りです。早々にあきらめて、新しい寝場所を探すがよい」  これは、いつの間にか馬車のかたわらに立つミスカの声であった。  ふり向きもせず、Dは落ちてきた短槍を拾うと、投げ返した。男爵が無理なくのばした手の中に、それはすっぽりと収まったのである。  二人の貴族はDの右手が大扉の表面に置かれるのを見た。  手首まで沈んだ。  ミスカがうす笑いを浮かべ、突然、眼を剥いた。とび出さんばかりの眼球の中で、大扉はゆっくりと後退をはじめたではないか。 「まさか……まさか……」  白い女貴族のつぶやきは、五万トンの扉が腕一本で開きはじめたことではなく、そうさせたDへの驚きであった。彼女はもちろん、バラージュ男爵でさえ声もなく御者台に凝固している。その唇が動いた。 「昔、きいたことがある。——貴族のあらゆる城塞、館には、それがいかに堅固なものであろうとも、ある人々にとっては空気のごとく出入り自由とする仕掛けがある、と。その場所と作動法は、その一族だけが知っている、と」  ミスカは恐怖の相を浮かべて男爵を見上げた。彼の言葉の意味を理解したのである。 「まさか……」  その言葉しか知らないように、誇り高い貴族の女は繰り返した。 「あ奴が……あのお方が……」  くぐり終えると、城門は再び閉じ、荒廃の気が一同を包んだ。  三方を岩に取り囲まれているところは、あの盗賊たちのアジトに似ている。だが、見上げれば、|蒼穹《そうきゅう》の代わりに広がる暗天は、無限の質量を感じさせる峨々たる岩の連なりだ。  門の部分を除き、この城の施設はすべて岩山をくり抜いてつくられているのだった。  発電所や変電局、エネルギー変換工場等、見分けのつく建物の他に、得体の知れない施設も数多く、男爵は静かな物腰の中にも好奇の気配を湛えて周囲を見廻していたが、じき、 「ここが『タロスの武器庫』か。——呪われた地へ入るのははじめてだ」  と言った。  彼らが全盛を極めていた頃から、この言葉の意味するところは人間たちの議論の的となっていたが、ようやく近年に至り、その凄まじい正体のきざはしが見えてきた。呪われたものたちにもまた、呪われていると恐怖すべき対象が存在するのである。  たとえば、「赤い雲」と呼ばれる大気圏外浮遊生物は、五万平方キロに及ぶ体を冬のある日、突如として降下させ、下方の生物を根こそぎ吸収してしまう。貴族や人間が辛うじてこの魔手から逃れ得たのは、降下速度があまりに鈍いため、地表到達時間と位置を正確に割り出し、その地方の全生命を——動植物も含めて——移送可能だったからである。あとは三日待てばよい。巨大な雲が去っていく様は、あたかも壮大な夕焼けを思わせる。  餌を求めて降下しながら、空腹のまま去り、次の二十数年をいかにして過ごすのか、貴族の科学力をもってしても、ついに解決することはなかった。  たとえば、東部都市区の何処かに存在するという「貴族専用迷路」は、人間にとっては単なる蜂の巣都市だが、貴族の血を引くものが一歩踏みこめば、ふたたび相まみえることの叶わぬ|迷路《メイズ》と化す。  なぜ、貴族に対する選択的な「神隠し」が行われるのか——これも原因は不明だ。 「寒い」  とミスカが両肩を抱いて洩らした。  Dも男爵もそれは感じている。城内へ一歩踏みこんだ瞬間から、吹きつけてきた妖々たる鬼気であった。 「何だと思う?」  と尋ねる男爵へ、 「訊く必要はあるまい」  とDは斜め左方へ眼をやったまま告げた。  ひときわ巨大で奇怪な建物は闇に溶けているが、貴族の血を引く三人の眼には、陽光の下で見るがごとくであった。 「確かめておく必要があるな」  男爵は声を残して歩き出した。  一〇歩ほど進んでふり返り、 「ご婦人についていたまえ」  と言って、また歩き出した。 「私も連れていって下さいませ」  ミスカが勇を鼓したように言った。 「このような不気味なところへ、ダンピール風情と一緒に残されるのは嫌でございます」 「私と来るより安全だが」 「いいえ」  悲痛とさえ言える声であった。よくも嫌われたものだが、Dは無表情に立っている。 「わかった。ただし、足手まといになっても、彼は私を守ることを優先する」 「わかっておりますわ」  酷薄な瞳がDをにらみつけた。  ミスカがつづき、しんがりをDがつとめて、三人は同じ運命へと歩きはじめた。  護衛として、Dは男爵の行為を止めるべきであった。いつもの彼なら必ずそうしたであろう。こんなことになったのは、やはり、鬼気の正体を確認せずにはいられないと判断したためだ。それほどに凄まじい鬼気であった。  角のような突起が空間的秩序を無視して生え狂っているとしか思えぬ建物の玄関で、三人は立ち止まった。  やはり、液体金属のドアである。  Dが一歩出かかるのを止めて、 「今度は私がやってみよう」  と男爵が前へ出た。  どこかゆるい銀色の表面へ右手をあてがうと、自然に手首まで沈んだ。  ほとんど同時に、ドアはゆっくりと後退をはじめたのである。 「さすがは——お見事でございます」  ミスカは声までかがやかせて叫んだ。たっぷりと皮肉をこめて、 「そこいらの混血児の芸当ごときは、たやすくおこなしになる」  ここで、はっとして、 「もしや、ご神祖の血筋にあたる方では——」 「残念ながら縁もゆかりもない。ご神祖は私にはまさしく神のようなお方だ」  男爵は涼しげな声で言った。自慢の色など破片もない代わりに、後半の言葉には限りない畏怖と敬意とがゆれていた。 「後につけ」  とDが言った。  これは護衛として当然の処置だから、ミスカもむっとしながらも黙った。  それきり、後ろの二人など存在しないかのような飄々たる風情で、黒衣の若者は鬼気渦巻く暗黒の内部へ一歩を踏み出した。    2  三人を迎えたのは広大な空間であった。虚無といってもいい。  何もない。何ひとつないのだ。眼につくのは、床、壁、天井に熔岩流みたいにこびりついた隆起の連なりであった。 「溶けているわ」  とミスカがかたわらの盛り上がりに眼を落として言った。 「何もかも溶けている。——外見は異常ないのに。この|内部《なか》で何があったのでしょうか」  男爵はあたりを見廻しながら、 「戦いか——それにしては、死体のひとつもないし、溶かし方が妙に整然としている。内部だけを破壊するための意志を感じるが」 「破壊せずにはいられなかった」  とDが引き取った。ミスカがぎょっとして彼を見た。この美しい若者が破壊の当事者のように感じられたのである。  それを知ってか知らずか、Dは、 「この工場内の施設を二度と使われたくなかった。——意志とはこれに尽きる」  とつけ加えた。 「つまり、二度と武器をつくりたくなかったということだ。——どんな武器だと思う」  男爵の言葉は質問ではなかった。  ここは、彼らが何度か口にしたように、貴族の武器庫だ。単に収蔵しておくだけではなく、施設を見ればわかるように製造も行う。  造り手は機械人間等のサポートを得て、貴族が担当する。冷血無残なかつての大支配者——恐れを知らぬ不遜な魔物。その彼らが生み出し、そして、二度と生み出せぬようにと、施設そのものを破壊した武器とは、一体何であったのか? 「確か、こうだ」  と男爵は自らのつぶやきに、自ら答えた。 「もちろん、どのような存在であったかは知らぬが、その武器を開発するために、数百年の歳月を要したこと。第一期、第二期の開発陣はことごとく死に絶え、第三期にいたってようやく完成を見たものの、完成したその瞬間、責任者はすべてを破壊する旨の通達を発し、それを実行したときく」 「破壊されるために造られた破壊者か」  Dはつぶやいた。墨を流したような暗黒の中で、二人の貴族はひととき声を失った。  Dが顎をしゃくった。  死と破滅が充満する闇の目的地は、前方の壁であった。 「あそこだ」  バラージュ男爵はうなずき、Dの方を向いた。 「どうする?」  Dは二人を忘れたように前進し、壁に辿り着くと、その一部に手をあてた。城塞の門を開いた奇蹟が再び顕現した証拠に、手は肘まで壁にめりこんでいた。  五秒ほど置いて、彼は身を翻し二人のところへ戻った。 「短い旅だったな」  と言った。 「放っておくのか」  と青い貴族は訊いた。 「“破壊者”は滅びておらんとみたが」  ミスカが息を引いた。 「我々の手には届かないところにいる。永劫に外部への影響はあるまい」 「永劫か」  Dはうなずいた。 「腑に落ちないことがありますわ」  二人は白い花のような美女を見た。 「私の感覚では、この鬼気が発生したのは、私たちが門をくぐって後しばらくのこと。それまでは単なる廃墟でありました。“破壊者”を蘇らせた原因があるのではありませんか」  視線は男爵にあてられていた。 「かもしれんな。ご神祖の一族ならばできるかもしれん」  男爵は視線を左右に動かし、 「ここでは、落ち着いて過ごせそうにないな。——出よう」  と言った。  建物を出ると、遠くで鳥の鳴き声がきこえた。 「“夜の子”か」  と男爵が眼を細めた。 「彼らすら、ここへはやって来ん。貴族の巣には」 「何をおっしゃいます」  とミスカが異議を唱えた。 「“夜の子”も他の生き物も、すべて我々が造ったもの。我らの許へ訪れぬのは畏怖のあまりでございます」 「畏怖はたやすくただの恐怖に変わる。だとすれば、残るのは憎しみか」 「そのような。——また、それでもよいではありませんか。優れたものが劣るものの憎悪を浴びるのは栄光でございます」 「私もそう教わった。父からな」 「ご立派なお父さまでございます」  男爵がその父を斃しに向かっていることを、ミスカは知らぬ。  鳥がまた鳴いた。  男爵が横を向いた。その前方にいるDの声を耳にしたのである。 「何を歌っている」  と彼は言ったのだ。 「貴族の栄光を讃えているのでございます」  ミスカの言葉は、あくまでも男爵に向けられたものだ。 「何だと思う?」  と男爵は訊いた。——美しい護衛に。 「栄光と畏怖と」  Dは言った。  ミスカがうすく笑った。 「滅びだ」  |眦《まなじり》を決して異を唱えようとするミスカを止めたのは、男爵のうなずきと、もう一度——今度は飛び去る寸前別れを告げるかのように響いてきた鳥の声であった。  月光と風と闇の下で時間だけが過ぎた。  ふと、Dは自分が眠っていたことに気がついた。  疲労は無論ある。だが、彼を眠りの底に引きこんだのは、これまで味わったどんな肉体的精神的誘因とも異なっていた。ダンピールとしての超絶的な第六感すらも、無意識の闇に吸いこまれていたのである。  もたれていた馬車から身を離して、彼は男爵の方を見た。  大地から身を起こしたばかりの姿が、不覚な眠りの異常性を増していた。 「きこえたか?」  とDは工場の建物の方を向きながら訊いた。  常人の耳には到底聴き取れぬ、風に揺れる木の葉のたてるような悲鳴が、彼を覚醒させたのであった。  期せずして男爵も同じ方を見た。ミスカの姿がないことに、どちらも気づいていた。  二人は風を巻いて走った。  扉は開いていた。  Dが先に跳びこんだ。  闇を見据える眼は、例の壁に、絶叫する口のように開いた楕円形の穴を鮮明に見ることができた。  そこから噴き上げる鬼気はもはやない。破滅の支配する工場内は、ひどく静謐であった。そこに恐ろしいものが潜んでいた。 「いたぞ」  男爵が右方へと走った。その先に倒れている白い美女の姿を眼の隅に収めただけで、Dは壁の|洞《うろ》に近づき、ためらいもせずにくぐった。  高さ三メートルほどの穴は真っすぐ闇の核へとつづいている。  ミスカが解放したものは、そこからやってきたのだった。いや、彼女もまたそいつに招かれ、Dと男爵は眠らされたのであろう。封じられたものは、封じたものの思いに反して数千年ものあいだ待ちつづけていたのだ。  その途方もない年月に挑むかのように、Dは闇の奥へと走り出した。  工場の|内部《なか》から現れた美しい影を、男爵が迎えた。ミスカの姿はない。Dが洞の奥に消えてから一時間が過ぎていた。 「ミスカは柩の中だ」  と男爵は言った。黒衣の護衛が、本来無関係な貴族の女の安否を尋ねるはずもなかった。 「様子はどうだ?」  Dは男爵の判断をいともたやすく裏切って訊いた。 「衰弱がひどい。全身のバイオリズムが極端に低下している。後はRBS次第だ」  |再生《リバース》システムは、貴族の柩に備えつけられた不可欠のメカニズムである。  不老不死を誇る貴族が必ずしも不死身にあらぬことは、人間の使用する木の杭や斧が証明している。これに対する貴族側の用意も怠りなく、その最たるものが、安全な血の眠りを約束する墓所と柩なのであった。  墓所の扉を守るDNA錠と多重心理妨害装置、そして何よりも数千、数万にも達する超重合鋼の扉。  人間の知恵がそれを通過した場合でも、柩を収めた玄室へと到る通路は虚構通路や永劫通路によって侵入者を異空間へと導き、その奥には生物が決して備えられない残忍さを持つ機械兵、ドール・アニマル等が待ち受ける。  だが、心臓を白木の杭に貫かれ、首を切り落とされてもなお、超人的生命力を有する貴族であるならば、その杭を引き抜き、落ちた首を何とか——たとえひん曲がってでも——傷口に押しつけさえすれば、そして、吸血鬼の生命力の最後の炎が燃え尽きる寸前、柩の|内部《なか》に戻りさえすれば、彼らの知力と運命観の成果——RBSが、全力を挙げて滅びへの道をふさぐ。闇のDNAを再構成、活性化し、不滅の生命に真の不滅の意味を再認識させるまで一週間か一年かはわからぬにせよ、柩の蓋が再び開くとき、人間は滅びたはずの脅威の帰還を眼のあたりにするのだ。それが原因不明であろうと、単なる衰弱ごときは一夜のうちに治療し得るはずであった。 「処分した方がいい」  恐るべき言葉をDは淡々と口にした。 「何故だ? ——あの穴の奥で何を見た?」 「封印堂だ」  世に出してはならぬ宝物や発明を封じこめておく空間である。建造には貴族院の許可がいった。 「山腹から二キロの奥にあった」    3  Dが見たものは、三次元方向へそれぞれ数キロの広さがある空間であった。  堂という宗教的なイメージは、その中央に置かれた長さ五メートル、幅二メートルほどの寝台と、周囲を埋め尽くす奇怪な品々が醸し出していた。 「何があった?」  と男爵は訊いた。 「メビウス書籍と血の泉、|多重層戦場《バトルフィールド》だ。堂のほとんどは、このメカニズムで埋められていた」 「眼醒めたものが読書にいそしみ、永劫の血の渇きを癒し、果てなき戦いに闘争本能を燃やす、か。考え得る最高の封じ込め手段だ。——それでも、封じられたものは解放を求めた」  それはDも同じ思いであったろう。  終わりのないメビウス書籍は、ひもとくものが知らぬうちに最初のページへと戻り、しかも、書かれている内容はすべて異なるため、読むものは飽くなき知的好奇心に駆りたてられて永劫に読み進めなければならない。  ただし、|印刷《プリント》自体に無限回に一度の割で狂いが生じる可能性があり、Dが見た壁を埋め尽くす書物は、そのための予備であろうと思われた。無限回に一度の可能性すら、貴族たちは恐れたのだ。  血の泉が飢えを満たすための処置であり、膨大なメカニズムの一部が、有限の材料から無限の血液を供給すべく活動しつづけることは言を待たない。そのメカニズムをサポートするメカニズムも、それをまた支えるメカも、いずれかに装備されているのであろう。  だが、Dの見た書籍はすべて読み捨てられ、潤沢なはずの血の泉は乾き果てていた。  となれば、眼醒めた破壊者の好奇心は、製作者たちの求めた最後の障壁——多重層戦場へと向かう他はない。  時間はともかく、空間の秘密をかろうじて我が物とした貴族たちは、数多くの分野に成果を生かすことになった。  物資の瞬間移送、あるいは、湖や谷を重ね合わせて小箱に封じこめる|技《ミニアチュール》。  際限なく敵が生じるというゲーム的技術も生まれた。ある空間に兵士と武器を用意し、それを数千、数万層にわたって重ね合わせれば、飽くことなき好戦意欲もいつかは——あるいは果てしなく満たされつづけていく。  貴族たちすら恐れる究極の破壊者の寝所にこれが用意されたのも、けだし当然といえたろう。 「戦場は故障していたのか?」  男爵の質問もまた当然であった。 「いや」  とDは応じた。 「すべて破壊されていた」 「それは凄まじい」  男爵の言葉には限りない畏怖と——殺意がこもっていた。  そうなのだ。強敵であればあるほど、その持つ闘志と残忍さが燃え上がる。これこそが貴族を文明の覇者とした一大特質といえた。 「ひとつだけ残っていたものがある」  Dのひとことは、男爵の心理に水を差す以上の好奇心をあおりたてた。 「ほう、それは?」  Dはコートの内側から取り出したものを青白い顔の前に示した。  二〇センチほどの水晶状の物体は、うす紫の色彩の内側に、金属の球体を包含していた。 「通信結晶だな。およそ五千年前の品だ。——読み取ったのか?」 「いや、情報の解読機構に一部傷がある。修理には少々手間取りそうだ」 「戦場は数万層あるはずだ。どうやって見つけた?」 「亜空間に包まれていた。|標識《ブイ》付きでな」 「破壊者に気づかれぬようにか? ——それを発見できる血の持ち主は、貴族の中にも数少ない。Dよ——君は何者だ?」 「奴は飢えているぞ」  とDは言った。 「血にも破壊にも。おれが通った通路は二〇〇〇メートル。高分子舗装剤が充填されていた。“破壊者”は五千年かけて掘り進んだのだ」 「そして、休憩をとった。そこへ我々がやって来たのだろうな。なぜ、奴は再び眼醒めたのだ、Dよ?」 「答えはミスカが知っている」 「“破壊者”を眼醒めさせたのは、恐らく、同じ種類の“気”だ。D——君か?」 「………」 「私は途方もない無礼を働いていたのかもしれんな」 「寝言は寝てから言え」  Dは城塞の出入口へと眼をそらした。 「外へ出た気配はない。奴はまだこの内部にいるぞ」 「奥にも施設はある」 「ここにいろ」  Dは身を翻した。  そのとき、大扉の外から馬車の轍の音が近づいてきた。Dと男爵だけに聴こえる響きは、大扉の前で停止し、じき、扉を叩く音が|耳朶《じだ》を打った。 「定期馬車だ」  と男爵が言った。  あの子供たちが待っていた馬車だろう。半日近い遅れが辺境ではざらにある。  激しい叩きぶりは救いを求めるかのようであったが、理由はすぐにわかった。  新たな蹄の音がさらに後から近づいてきたのである。聴こえるはずもない|叩音《こうおん》を聴き取る二人の耳には、そのおびただしい数を知るのも容易だった。 「野盗か——どうする?」  男爵は訊いた。 「おまえは雇い主だ。好きにしろ」 「外も地獄、内も地獄だが——」  男爵は大扉の方へ走り出した。  Dが着くのを待たず、開閉装置に手をのばす。外側の装置はともかく、内側のは壊れていないようだった。  その幅まで扉が開くと同時に、四頭立ての馬車は狂ったような馬もろともに城内へ疾走してきた。  男爵の手がもう一度装置へ触れた。  そのとき——  女の悲鳴が闇天を駆けた。  男爵とDのみか、唾を吐き、眼を血走らせた馬車馬たちまでもが棒立ちになった。  悲鳴はミスカのものだ。外にはいない。馬車に積まれた柩内の楽天地で、彼女は何に脅えているのか!?  Dは見た。  男爵も見た。  大扉へとつづく城壁は前庭の端で右に折れているが、その角を曲がって、長身の影がふらりと現れたのである。  寝台にふさわしい三メートルの巨躯は、戦士用の兜や胸当て、手甲、脚絆をつけてもむしろ痩せぎすに見えた。  慎ましい月光の反射が物語るのは、それらの防具が金属ではなく合成皮革であり、右手に提げた五メートル近い長槍のみが、鋼のかがやきを帯びていた。  右腰にも長剣が揺れている。  大地が揺れた。  そいつは、うっすらと、閉じていた瞼を開いた。大雑把に鼻や唇を取りつけたような顔の造作が一変する。  赤い光が皓々と洩れはじめる双眸の映し出したものは、大扉を抜けて殺到する青白い半透明の騎馬隊であった。  辺境に巣くう妖獣妖魔のうちでも、凶暴さ、恐怖度では屈指の一団——|幽霊《ファントム》騎士団であった。  人間の形をしている奴もいる。ぼろぼろの衣裳をまとった白骨だけの奴もいる。首がふたつの奴、全身に眼球をまぶしたような奴、数十本の手足を蠢かす奴——そのどれもが、馬もろともに半ば透き通り、全身に青白い燐光を噴いているのだった。  となれば、遠方からもたやすく発見でき、被害者になる前に逃亡可能のようなものだが、そのへんの謎はじき明らかになるだろう。  馬車の馬がまたもや後足で直立した。  巨人が動いたのだ。  馬車馬のみか、騎士団の馬まで後を追ったが、悲鳴を上げて地上へ落ちたのは、馬車の御者のみであった。 「たた助けてくれ」  と叫びつつ円を描いて廻る。誰に救いを求めたらいいのかわからなくなってしまったのだ。  青い光がとんだ。銀光がそれと交差した。神技といってもいいDの一刀であったが、青い光は刀身を貫き、御者の右眼をそのゴーグルごと脳まで串刺しにした。  異様な音が天に駆け昇った。  巨人が吠えたのである。ミスカの悲鳴がそれに重なった。  当面の敵はこいつ[#「こいつ」に傍点]、とファントムたちは判断したようであった。  その隙に、Dは馬車の戸を開けて、|内部《なか》にいた姉弟を抱き上げた。  だが、ファントムの一撃は彼の刀身を幻のごとく通り抜けたではないか。刀身の防げぬ攻撃を、いかにDとはいえ、果たして返し得るのか。  その行く手を二頭の騎馬がふさいだ。もう二頭が男爵、後は巨人に殺到する。  二人を左腕にまとめて抱くや、Dは前方へ身を投げ出した。  青い投げ矢が馬車の車体に当たって跳ね返った。  のめりつつ身をひねって、Dは二頭の馬の前足を薙ぎ払った。  刀身は空を切った。  地べたへぶつかる寸前、左肘をついて跳ね上がり、Dは大きく後方へ跳んだ。もといた位置へと青い矢が走り、これも跳ね返った。  Dの両眼が真紅の光を帯びた。謎を解いたかのように。 「D——」  と男爵の声が呼んだ。 「こいつらの攻撃——無効だと念じろ」  青い光が飛翔してきた。  Dの刀身は動かなかった。Dの首と眉間に命中した光は、たやすく跳ね返って地に落ちた。  ファントムたちの攻防は、極めて精神的なものだといえたろう。  戦いの渦中にあるものは誰でも、攻撃をかわすか受ける。受けた場合、敵の攻撃は余程の力の差がなければ跳ね返せるはずだ。——これが物理的常識であり、受けた当人もそう思う。思うというより無意識に信じている。  ファントムの攻撃は、この信念の逆を突くものであった。  跳ね返したはず[#「はず」に傍点]の矢は、受けた刀身を貫き、鎧や装甲を貫通する。こちらの攻撃もまた、切れば倒せるという大前提があるが故に[#「大前提があるが故に」に傍点]、切っても切れないという事態を必然的に招くことになる。  これさえ見抜けば、攻略は簡単に思える。すなわち、切れると思わず攻撃し、受けられると思わず受ける——これに尽きる。  だが、そのためには、強固な常識を植えつけられた無意識レベルから変換しなくてはならない。信仰にも近い思いこみ——強烈無比な思念のみが、逆転をさらに逆しまに、正常に戻す。  男爵の叫びをきいたものがDでなかったら、たちまちのうちに無抵抗の死を迎えていただろう。  跳躍したDの剣が躍った。  ファントムの首はあっけなく胴から離れ、馬もろとも数千の燐光と化して四散し、すぐ見えなくなった。  だが、城塞の中で注目すべきは、もうひとつの戦いであったろう。  巨人を囲んだファントムたちの手から青い光が飛ぶや、その全身は針ネズミと化した。  巨人が吠えた。声は長槍の描く巨大風車となってファントムたちを薙ぎ払った。  誰ひとり——馬一頭倒れず、青白い影たちは新たな光の矢で巨人を震撼させた。 「やられっ放しか」  つぶやくDに、 「いや」  と男爵が否定した。  二人の視界が紅く染まったのは、次の瞬間であった。  巨人の眼光だ。  ファントムたちも血の色に染まった。青白い燐光もかがやきを増したように見えたが、それも束の間、彼らは疾風の前の|狭霧《さぎり》のごとく吹きとばされたのである。  凄まじい「死光」の放射だった。それは正面の大扉にぶつかり、五万トンの金属をみるみる腐食させた。放射時の巨人の精神状態は無我であったのかもしれない。  その通り路をずれていた三頭が残った。  真紅に青い|色彩《いろ》が挑んだ。三頭の騎馬がかがやいたのである。  それに向けられた赤い双眸が急速に光を失った。  単にスピードの問題だったのかもしれないが、三対の怪異な視線は巨人の死光より早く、彼をよろめかせた。  青い光の矢が集中し、巨人は後退を開始した。  馬上のファントムが片手をのばした。ひとりの手は骨である。  そして、彼らは手招いたのである。  巨人の足が止まった。あろうべきことか、彼は三人の死神の方へと戻りはじめたではないか。  死の矢は青くかがやきつつ襲った。  ついに巨人は両膝をついた。  地べたへ倒れた姿は無様なぬいぐるみのようだった。  三頭の馬は馬首を巡らせた。  |幽鬼《ファントム》どもは驚いたかもしれない。見たものの精神を呪縛する彼らの催眠光を防ぐべく、その出現地域の人々は、色濃いゴーグルを使用する。  その代わりに、彼らの前に立つ青い海のように静かな貴族は両眼を固く閉じていた。  馬上の動揺を示して、青い死矢の攻撃は束の間遅れた。  白い光の帯は解放を満喫するかのようにのびのびと彼らの間を巡り、その首を両断した。 「奴らの弱点——よくわかったな」  Dは姉弟を地上に下ろしながら声をかけた。子供たちの顔には恐怖よりも喜びがあふれていた。また、Dに会えたのだ。 「昔一度戦ったことがある」  と男爵は二人の子供を視界に収めた。小さな喉が生唾を飲みこんで震えた。人間が貴族を見間違えることはない。 「だが、君も気づいたはずだ。辺境でDと呼ばれる男が、やられっぱなしでは済ませまい。——それより奴だ」  男爵の視線の先に、突っぷした巨体があった。  青い光の矢は消滅している。姉弟に、 「ここで待て」  と告げて、Dは男爵の後を追った。  巨人は完全にこと切れていた。 「堂内に封じこめられていたものはこれ[#「これ」に傍点]か?」  男爵の声には、どこか釈然としない響きがあった。 「信じられんが、そうだ。出現したときの『気』は工場と堂内のものと等しかった」  男爵にもそれはわかっていた。  これが、製作者さえ恐れた“破壊者”の成れの果てか。二キロもある通路をえぐり抜いて地上へ出現した“兵器”の終焉か。それを信じることは、暁の下で見る夢に似ていた。 「解放したのはミスカだと思うか?」 「十中八九」  とDは答えた。 「そして、生き残った」 「調べてみなければなるまいな」  男爵は白い馬車の方へ歩き出した。 [#改ページ] 第五章 麗娘妖雲    1  晴天の空は青い天蓋のようにおおらかに広がり、しばらく見上げていると覆い被さってくるみたいで、御者台の姉と弟はすぐ前方に眼を向けたが、それも束の間、うっとりとした視線の行き着くところは、御者台の右横に並んでサイボーグ馬の手綱を操る黒衣の美青年であった。  翌日の昼近くである。  幅広い中央街道は、あと二〇キロほどで都への幹線とぶつかる。二人はそこでDと別れるのだった。 「ねえ、お兄さん」  と姉の方がDに呼びかけた。  心もちこちらへ顔を向けたハンターへ小声で、 「あの二人——貴族なんでしょう。どうして護衛なんかするの?」  とがめるような、うす気味悪そうな口調は仕方がない。辺境で育った少年や少女にとって、貴族は文字通り血に飢えた悪鬼にすぎないのだ。 「払いがいい」  とDは答えた。夢を壊すような返事に、少女は反感を持てなかった。生きるために何が必要か、物ごころついた頃から骨身に沁みている。Dの返事に、何とはなしのユーモアを感じたこともある。子供相手は多少、勝手がちがうらしい。 「お金になれば、何でもしてくれるの?」  嬉々として訊かれて、Dの口もとに表情が揺らいだ。 「そうだ」 「なら、あたしたちを“都”まで送ってくれませんか!?」 「方向がちがう」 「幹線の宿場で待ってるわ。来てくれるまでいつまでも——ねえ?」 「うんうんうん」  と少年——弟も勢いよくうなずいた。 「おいらも姉ちゃんも芸があるからね。ちゃんと稼いで待ってるよ。お兄ちゃんも心配しないでゆっくり稼いでおいでね」 「そうするか」  とDは答えた。どんな心境で口にしたのかはわからない。 「でもさ、お姉ちゃん。おいら、あの青い兄ちゃん嫌いじゃないよ」 「貴族を兄ちゃんなんて呼ぶのはおよしなさい」 「だってさ、やさしかったじゃないか。おれと姉ちゃんを馬車に乗せてくれたんだぜ。普通なら血ィ吸われてるよ」 「この人がいるからやめたのよ」  少女はぷくぷくした頬をさらにふくらませて、うっとりとDを見た。 「そうだけどさあ」 「あの女の人はどうなの?」  と少女は切り返した。 「あっ、あいつ苦手」  ミスカのことである。  この二人のやりとりをどう聞いているのか、Dの表情からはいつも通り、あらゆる感情の色が消えている。  巨人が斃れた後、男爵とDはミスカのチェックを行った。  辺境にも数多い憑依体がミスカに取り憑いたのではないかと、ともに思い至ったのである。その実力に比して、あまりにも脆い巨人の最期であった。  ひょっとしたら、巨人は単なる容れ物にすぎず、精神体ともいうべき本体は、壁に穴を開けて彼を解放したミスカに乗り移ったのではないか。謎めいた衰弱、巨人の出現に伴った狂乱の悲鳴——。彼女が無事だったのはそのせいと、十分に断言できる状況でもあった。  まだ完治し切れていない彼女を柩から出し、男爵の馬車に備えつけてある高感度テスターで肉体と精神の状態を調べた結果は、しかし、異常なしと出た。  テスターに故障はない。 「大丈夫そうだ」  という男爵へ、 「そう思うか?」  とDは尋ねた。 「いや。このテスターに反応するのは、一京分の一レベルの生体精神までだ。それ以下の存在だということも考えられる」  Dはぐったりと車輪にもたれているミスカを見下ろした。テストは外で行われた。 「始末したらどうだ?」 「時々、君を雇うのではなかったという気になる。人間の血とは、かくも酷薄なものか?」 「人間とは限らん」 「貴族同士は多少の間違いはあっても、常に友愛と尊敬の絆を保ち合ってきた。私はそう信じている。君の貴族の血は、この娘に対してそのような冷徹な言質を許さぬはずだ」 「人間の血はもっとやさしいかもしれんぞ」 「愚かな。私は自分なりに人間を研究したつもりだ。彼らの美質も欠点も心得ている。それでもなお、彼らが我らより劣る存在だという信念は動かし難い」 「信念よりは事実だ。研究を観察にしてみたら、別の結論が出ただろう」  青い貴族と黒いハンター——二人の間にはじめて危険なものが流れた。 「……おやめ下さい」  苦しげなミスカの声が緊張を解いた。 「私の前で、人間の話など……それより、もう……お気は済みましたか?」  男爵はうなずいた。 「なら、あの不潔な者どもを……ご処分下さいませ」  ふるえる指のさす向こうに、あの姉弟がいた。 「それはできん」 「……なぜでございます」  衰弱しきった顔の中で、ミスカの両眼が憎悪の沼と化した。 「人間とはいえ、子供を放っては行けん。明日、都合のいい場所で降ろしてやろう」 「……なりません……手を出さぬのは約定としても……ともに行くなどと……もしも、私が同じ立場とおっしゃるなら……この場へ置き去りにして下さいませ」 「柩へ戻してくれ」  と男爵はDに命じた。  黒い腕に抱き上げられるまで、ミスカは全身を震わせて抵抗したが、そのせいで疲労の極に達したか、Dが白い馬車へと歩き出す前に意識を失ってしまった。  Dが戻ると、男爵は姉弟のそばに立っていた。  ふり向いてDを見、優美な眉をひそめた。  Dのコートは黒煙を噴き上げている。 「防御機構か?」  と訊いた。  Dはうなずいた。  ミスカの柩に付属する防御メカニズムは、Dを貴族以外のものと判断したのである。  全身を貫いたのは十万度のレーザー・ビームであった。 「済まないことをしたな。君がダンピールだということを失念していたよ」  と男爵は詫びた。嘘ではなさそうだった。 「構わん。作動したのは半分だ」  とDは答えて、男爵を沈黙させた。  幸いなことに、東の空の色に青みが混じりはじめた。男爵は馬車へと戻った。 「夜が明けたら出発だ。荷物をこの馬車へ移せ」  とDは二人に伝えた。 「うん」  と答えて走り出す前に、少年は青い貴族の方へ視線をとばした。瞳の色は和やかであった。 「貴族と何を話した?」  馬車の横でDは訊いた。 「たいしたことじゃありません」  と姉はあわてたように首をふった。 「嘘だよ。どこの生まれかとか、どこへ行くのかとか訊かれたよ」 「だから、たいしたことじゃないじゃないの」  おっかないぷくぷく顔から少し身を遠ざけて、弟は断固抵抗した。 「貴族を好きかって訊かれた」  子供ごころにも、それは重大な質問なのであろう。 「ほう。何と答えた?」 「嫌いだって言いました」  姉がむきになって言った。Dと恋愛をしているのだ。 「おいら、答えなかった」  と弟はどぎまぎした。 「どうして嫌いって言わなかったのよ!」 「だって、あの兄ちゃん、いい男だし、やさしい眼をしてたよ」 「やさしい眼か」  とD。 「うん。哀しそうな、さ。——お兄ちゃんと似てるよ」  青い空の下を、二人の美しい若者が行く。ひとりは柩の中、ひとりは馬に乗って。  どちらも哀しい眼を。  しかし、Dの眼がやさしいかどうか。 「ほら、ごらん——あんたが貴族と同じだなんていうから、お兄さん、黙っちゃったじゃないの」 「いちちちち」  姉が見えないように弟の腿をつねり、少年は声を出さずに抵抗した。  無言で掴み合っているうちに、ふと、前方を見て、 「あら」  と洩らした、その姉の頬っぺたを弟が思いきり引っぱり、しかし、Dが手綱を取って馬車を止めたのに気づいて、これも、 「あ」  と言った。 「使え」  二人の膝の上に大型の火薬銃を放り、Dは前方へと馬を駆った。  道の左右は、高さ一〇メートルを越す砂岩の台地であった。  三〇メートルほど離れた道の上に、金髪の娘がぼんやりと立っていたのである。  しかも、背中には見るも醜悪な、紫色の大|蝦蟇《がま》を背負って。  Dに気づくと、娘は数歩よろめきつつ前進し、どうと打ち倒れたが、その瞬間、蝦蟇もその身体を離れ、かたわらの断崖を駆け上ると、あっという間に見えなくなってしまった。  Dは素早く馬から下りて、娘の脈を取った。  うっすらと細い眼が開いた。血の気のない美貌に見覚えがあった。湿地帯を越える前、街道の小屋で興行していた奇術師と一緒にいた娘だ。 「助け……て」  と娘は切れ切れの声をふりしぼった。  Dの顔を見て、眼を丸くするのを忘れない。臨終の病人でも同じことをやるだろう。 「どうした?」  とDは訊いた。娘の症状がショックと疲労だけなのはわかっていた。 「あの蝦蟇が……ずっと……追い払って……お願い……」 「もう逃げた」  娘はむしろ恐怖の相を浮かべた。 「信じられないわ……私から……離れたなんて……」  立てるかとも訊かず、Dは娘に肩を貸して立ち上がらせた。  鞍の上に乗せ、手綱を引いて馬車まで戻った。  ——どうした?  騒ぎを聞きつけたか、馬車の中から、Dにしか聞こえぬ男爵の声が漂ってきた。  事情を説明し、 「次の宿場まで同行させる。馬車の中へ入れて欲しいが」 「いいだろう」  しかし、Dが車内へ移そうとした途端、娘は狂気のように泣き叫んだ。貴族の馬車だとはひと目でわかる。 「やめて——貴族と一緒だなんて——お願い」  死ぬとまで騒ぎ出し、それがどう見ても本気らしいので、 「では、おまえたちが行け」  とDは姉と弟に告げた。  姉は、いやンとごねたが、好奇心いっぱいの弟は、 「いいよ!」  眼をかがやかせて、自分から御者台を降りた。仕方なく姉も後につづく。  ぐったりした娘を御者台にもたせかけ、Dは前進を再開した。どこかから蝦蟇が飛びかかってくるかとも思ったが、気配のけの字もなかった。  疲労の極といった感じの娘へ鞍鞄から栄養剤のカプセルを取り出して放り、娘はぼんやりとそれを見つめていたが、手助けなんかしてくれそうにないとあきらめたものか、弱々しい手つきでカプセルを取り上げ、口の中で噛みつぶした。  ビタミン、ミネラル、疲労除去剤等、九〇〇種配合のカプセルはたちまち——五秒としないうちに娘の表情に生気と赤みを取り戻させた。高価な品だが、これがないと辺境の旅は裸で行くようなものだ。  大きく息を吐いて、娘は姿勢を正した。 「ありがとうございました」  と丁寧に頭を下げる。 「元気が出たか?」 「はい」 「なら、次の宿場で降りろ」 「………」  娘は呆気にとられ、美しくたくましい若者が、必ずしも女を大切にしないという事実に思い当たった。 「あなたは……どなたです?」  と訊いたのは、絶望と怒りを混ぜた表情のまま、五分ほどゆられてからだ。  返事はない。 「これは貴族の馬車——それを守る人は……でも、あなたがそんな風にはとても見えないわ……ひょっとして……D、と?」 「どこでおれの名をきいた?」  じろ、と見られただけで、娘の頬は紅く染まった。 「風の噂よ。辺境にとても美しいハンターがいるって。でも、吸血鬼ハンターがどうして貴族の馬車を護衛しているの?」 「依頼主でな」 「人間の手から守るため?」 「そうなるか」 「それって、本末転倒じゃありませんの?」 「かもしれん」 「口数が少ないのね」  とても多い[#「とても多い」に傍点]ということに気がつかない娘の台詞を、Dは無視しているように見えた。 「昨日、シャムニ村の手前の街道で会いましたね。——覚えているはずもないわね。わたしは手妻の助手をしていたの」  娘の身の上話は白い陽ざしの中に溶け、いつの間にか崖も消えた街道の行く手には、青い平原が広がっていた。  草が波打っている。風だった。轍のきしみはつぶやきか歌声のように渡った。  それを耳にし、眼にしているものが、青い馬車の中にもいた。  車内の真ん中に安置された豪奢な柩を、二人の姉弟はどこか搾然たる面持ちで見つめていた。  その中に貴族がいる。わかり切っているのに、恐怖より違和感の方が強いのは、昨夜、眼のあたりにした現物[#「現物」に傍点]の印象が、むしろ優雅でやさしいものだったからであり、それを守っているのがDだったからである。  とはいうものの、やはり、貴族の寝室を前にすると、生まれたときから叩きこまれてきた本能的ともいえる原初的恐怖が頭をもたげて来ざるを得ない。 「気味が悪いよ、お姉ちゃん」  と少年がごねると、 「外は昼よ、絶対に出て来られないわ」  と少女が太鼓判を押す。 「大体、あんた、いい人だって言ってたじゃないの」 「それとこれとは別だよ。棺桶ってやっぱり嫌だよ」 「大丈夫よ。あたしがついてるし、外にはあのお兄さんだっているんだから」 「でもさあ」  と少年が異議を唱えたとき、  ——何処から来た、二人とも?  陰々たる声が姉弟の頭の中に響き渡ったのである。 「そんなこと——訊いてどうするのよ?」  と姉が逆に訊き返した。 「おかしなことをしたら、外のお兄さんに言いつけるからね」  ——それは困った  頭の中の声には、苦笑が混じっていた。  ——この私も、彼には勝てるかどうか 「誰が勝てるもんですか」  頬っぺたを上気させて言う姉の肘を、弟がこれも肘でこづいた。 「まずいよ、そう正面切っちゃ」  こちらの方が現実主義者ではあるらしい。元来は女の方がそうなりやすいのだが、幼い頃から強烈な個性と行動を共にしていると、必然的にまあまあが身についてしまうものらしい。しかし、あの湿地帯の船上で絶体絶命のピンチを打開した鮮やかな軽業を見ても、いざというときの度胸はやはり姉にもひけを取らないにちがいない。 「だってさ」  と眼を剥く少女の手を掴んで握りしめ、 「——西部辺境リデルの街だよ」  と答えた。 「知ってる?」  ——いいや。どんな場所だな? 「色々、知りたがる小父さんだなあ。ちっちゃな田舎の街だよ。あの辺じゃ一番安全だったけど、その分、静かで退屈だったからなあ。街はずれには、きれいな滝や草原もあった」  ——どうして、そこを出た? 「父さんと母さんが死んじゃったからだよ」  当たり前だという風な口調だった。  ——訊いてもいいか? どうして亡くなった? 「沼でファングエビを採っているところを、蛇竜にやられちゃったんだ。街の人に教えてもらったよ。おれたち、村のえらいさんに引き取られたんだけど、こき使われるばっかりでさ。それで脱出して辺境巡りのカーニバルに拾ってもらったのさ。軽業は三年でマスターしちまったよ」  ——たいしたものだ 「知らねえくせに、誉めんなって」  少年はひどく大人びた動作で、柩に手をふってみせた。顔だけは年齢のままだから、苦笑が子供っぽい、というより可愛らしい。怖いもの知らず——なのではなく、その明るさで怖さを克服してきたにちがいない。 「おいらたちのことよりさ、小父さん、貴族、だろ? どうして、おいらたちに何もしないで馬車へ乗せてくれたんだい?」 「これから、あん[#「あん」に傍点]のよ」  姉が眦を決して言った。 「なら、とっくにしてるよ」 「あの強くてきれいなお兄さんがいるから、何もできないのよ」  ——そうかも知れんぞ  聞こえないように悪態をついたつもりの少女は、丸まっちい手で口を押さえた。 「小父さん、どこまで行くのさ?」  すかさず少年が訊いた。  ——クラウハウゼンの村だ 「結構あるねえ。知り合いが治めてるのかい?」  ——父がいる 「親父さん? いいなあ。——小父さん、遊んでられるもんなあ。いいなあ」 「よしなさいってば」  今度は姉が肘でこづいた。 「なんだよお」  と弟は唇を尖らせたが、太陽みたいに赤くなった姉の顔を見て、 「ふん」  とそっぽを向き、 「おいら、小父さんは好きだけど、あの白い服の女は気に入らねえな」  と言った。  ——どうしてだ? 「女のくせにツンケンしちゃって、愛嬌ってものがねえ。あんな女ばっかりじゃ、世の中、潤いがなくなるよ」  ——それはそれは 「それによ、どうも眼つきがおかしい。ありゃ、精神異常の眼だ」  ——そう思うか? 「うん。恋人かどうか知らねえけど、あーいうタイプとは早いとこ縁を切った方がいいぜ。おいら、これでも女を見る眼は確かなんだ」  ——参考になるな 「なあに」  少年は胸を張って柩を見下ろした。笑顔だった。  その頬が鳴った。軽業の天才がよけられなかったのは、やっぱり、気がゆるんでいたのと、ぶったのがこれも天才だったからだろう。 「なにすんだよ!」  怒りの眼差しの前で、もっと激しい怒りが丸い顔をふくらませていた。 「貴族なんかにおべっか使って、あんたどういうつもりよ!?」 「おべっかなんか、誰が使ったよ!?」 「使ったわよ」 「使って——」  少年が身をふるわせながら殴り返そうとしたとき、  ——貴族が好かれるわけもないが、それほど嫌いか?  柩の中の声が訊いた。  少女は狂気のように身をふるわせて、 「嫌いよ、大っ嫌いよ。あんたたちが、あんたたちの仲間が——」  少女はしゃくり上げた。えっえっという嗚咽ともいえない嗚咽が、肩をゆするたびに洩れた。 「父さんと母さんを——」 「えーっ!?」  愕然というより、呆れ返ったみたいな素っ頓狂な声を上げて、少年は姉を見つめた。 「嘘つけ、おい」 「本当よ。本当だってば」 「まさか。——だって、父さんと母さんは、二人とも蛇竜にやられたって」 「村の人がそういうことにしてくれたのよ、——本当はね。本当はね、父さんと母さんは帰って来たんだ、生きて——いえ、生きてるふりをしているだけだった。二人とも身体が冷えるって、ヒーターの前に行ったきり、ずうっと動かなかった。何にもしゃべらないで、炎を見つめているのよ。お互いの顔も見ないの。いつもは絶対にそうじゃない。別々の部屋にいたって、声をかけ合ってやかましいくらいだった。あたし、哀しくなって、近寄って話しかけたの。父さんに母さん、どうしたのって。そしたら——」  弟は、とまどったような表情をしていた。 「——そしたら、二人して、“出て行け”って。あたしの方も見ないでよ。“早く、父さんと母さんのそばを離れろ。ヒュウを連れて出て行け”って言ったの。あたし、二人ともどうかしちゃったと思った。ニゴリカビは頭に憑くから、それにやられたんだと思った。それで二人の前へ廻ったの。真っ青な顔をしてたわ。ヒーターは燃えているのに、顔色はアイダの湖みたいに青いの。でも、ひとつだけ赤い——真っ赤なものがあった。唇よ。二人とも唇だけがそのままの形に血を噴いたみたいに赤いの。あたし、すぐにわかった。そのとき、何を言ったのかは覚えていないわ。気がつくと、眠りっ放しのあなたを抱いて、家の外にいた。治安官のギダリさんと、民治官の人たちが何人も周りにいて、何か話しかけてるんだけど、あたし、何言ってるかもわからなかった。家が燃えるのを見てたのよ。いつも、ちっちゃいなと思ってた家が、あんなに大きな炎になるなんて不思議だった。後で、ギダリさんが、父さんと母さんは沼で貴族に襲われたって話してくれたわ。それを見てた人がいて、みんなが家へやってきたんだって。父さんと母さんに会ったのは、それが最後よ」  少年は窓の外を見ていた。桜色の顔に|斑《ふ》のような陰影が滲んでは流れた。街道の脇を飾る木立の影であった。 「あなたも貴族でしょ。こんな立派な棺桶に収まって、夜な夜な人の生き血を吸って廻るんでしょ。本当は、あたし、あなたの馬車になんか乗りたくなかった。今でも、火をつけてやりたいくらいよ」  ——それは困った  と男爵の声は言った。  ——だが、火をつけるのは、少し遠慮してもらおう。私が用件を済ませるまで、な 「それからなら、火ィつけてもいいの? ——ふん、できもしないこと口にしないでよ」  ——立ち合うならよかろう  少年がはっと柩の方を向いた。  ——ただし、私も本気で相手になる。それでどうだね?  少女の丸顔が血の気を失った。  弟の方を見た。やめろ、と顔中で忠告している。それで決まった。 「いいわ。絶対、やっつけてやる。心臓に杭打ち用の鉄板でも貼っておきなさいよ」  ——いい忠告だ。君はどうする?  自分のことだと少年が理解するまで、数瞬を要した。姉の無鉄砲さに呆れ返っていたのである。 「おいらは——」 「もちろん、やるわよ。二人きりの姉弟だもの。——ねえ」  普段の姉からは想像もつかない迫力の顔でにらみつけられ、 「うん」  と少年はうなずいてしまった。  ——姉思いとみえるな  柩の声は、心なしか笑いを含んでいた。  ——よかろう。君たちとはじきに別れなければならんが、何処にいようとも、用が済み次第、私は君たちのもとへ参上して、その腕前を見せてもらうことにしよう 「約束よ」  ——ご神祖の名にかけて。貴族の名にかけて、守ろう  姉は丸顔を闘志で紅く染め、弟が釈然としない表情で首をかしげたとき、急に馬車の速力が落ちた。  少年が窓を開けて顔を出し、あっ!? と叫んだ。 「どうしたのよ!?」  と姉も後につづき、こちらも、 「やだー!」  と眼を丸くした。  地平線の彼方から、紫色をした雲のような塊が湧き上がって、こちらへ向かってくるではないか。  高さは一〇〇メートルか一キロか。巨大な瘤が幾つも重なり合い、融合し、さらに大きな隆起が盛り上がってくる様は、抜けるような青空の下だけに、勇壮さを通り越して不気味でさえあった。  馬車の影が地上に明滅した。紫の雲塊と地上とを、幾筋ともしれぬ稲妻が結んでいるのだった。 「電気雲だわ!」  少女の叫びが、そいつ[#「そいつ」に傍点]の正体を雄弁に物語っていた。貴族が地上にばら撒いた人工の妖物は数万とも数千万ともいわれるが、中でも、数百平方キロの広さをカバーし、その頂は地上五キロにも及ぶといわれる雲状生命体は、優に、最高危険物の五指に入るだろう。  生命を有するガス塊は十三種からなり、その各々の成分が複雑に絡み合うため、内部には常に奇怪な毒ガス|帯《ゾーン》が存在し、外部に対しては、五〇万ボルトもの高圧電流や、酸性雨、腐敗風等をもたらす。従って、こいつが通過した後は、文字通り草一本生えない死の土地と化すが、他の生物にとって唯一の幸運は短命なことで、発生後、せいぜい一昼夜を経れば消えてなくなるのも、複合生命体であるがゆえとされる。  つまり——生成後の二四時間は、死神そのものと化して暴れ狂うのだ。そのために、貴族は、ガス状の脳に他種への限りない憎悪と破壊衝動のみを植えつけた。それなのになぜ短命にしたかといえば、雲の存在も暴虐さも、単なる遊び半分——束の間の楽しみにすぎないからだ。彼らは人間の右往左往を少しのあいだ嘲笑するためにだけ、雲をつくったのである。  ——どうする、D?  男爵の声が、馬上のDの耳を打った。 「逃げるしかあるまい」  ——間に合うと思うか? 「何とも言えんな」  ——なら、みな馬車へ入れ。おまえとその女は、ミスカの馬車へ移るがよかろう。話はしておいた。馬は逃がせ  瞬時にDは決断していた。御者台の娘を抱いて白馬車の内部へと入りこむと同時に、馬の尻を叩く。すでに脅威を察知していた馬は、一目散にもと来た道を走り出した。  娘が驚きの声を押し殺した。  外見の倍はありそうに広い車内は、白い花で埋められていた。向こう側が透けそうなはかない花びらは、二人の動きだけで一斉にゆらめいた。  Dが扉を閉めると同時に陽が翳った。  街道が黄色の砂塵を舞い上げ、木立という木立が一方向へなびいていく。不気味さと静けさがみなぎる前兆であった。  ——外は死じゃ  柩の|内部《なか》のものは、ミスカの声で言った。  ——貴族と|人間《ひと》——どちらがそれにふさわしい? Dよ  車内が青く染まってDの代わりに答えた。沿道の樹々が炎に包まれ、みるみる火球と化す。 「怖い」  と女が洩らした。 「これは、なかなかのもンじゃな。下手すると全滅じゃぞい」  ともうひとつ、誰のものでもない声がしょぼしょぼとつぶやいたが、これはDにしか聞こえなかった。 「お姉ちゃん」 「ヒュウ」  青い馬車の内部で、姉と弟が固く抱き合った。  あり得ない闇が世界を覆い尽くし、幼い姉弟には、人知の到底及ばぬ死そのものに思えた。  一瞬、二台の馬車に四方から稲妻が集中した。イオン化した空気は易々と電撃の通過を許し、瞬時に生じる熱は、それに触れた地面をガラス様に変えた。  馬なき馬車は青い光彩に包まれ、それ自体が奇怪な生物のように見えた。たとえこの雲以上の妖物が現れても、馬車を|弄《いら》う死の爪には、成す術もないと思われた。    2  圧倒的な死の通過の後には、無残な大地が残された。  木立はことごとく黒煙を昇らせ、熔融したガラス状大地のあちこちは、澄んだ陽光をはね返している。  二台の馬車は、もとの位置にいた。  妖雲が去って一〇分——青い扉が開いて、二人の子供たちがおそるおそる地に降りた。  脅えと好奇の眼が四方を見廻し、すぐに、 「あっ、お兄ちゃん!」 「いた!」  駆け寄った先に、黒いコート姿が陽光を浴びていた。  かたわらの娘には、訝しげな視線を当てたきり、 「おいら、もう駄目かと思ったぜ」 「あたしも」  口々に叫ぶ声と表情には、生命のかがやきが溢れていた。 「よく保ったよなあ。——周りはみんな、真っ黒焦げじゃねえの」  弟の慨嘆を聞きながら、姉はつくづく背後の馬車へ眼をやって、 「凄いなあ……」  言いかけて、口を閉ざした。馬車の持ち主への賞讃になると思い至ったのである。  周囲の荒涼たる死と、その中で小さな別世界みたいに生き生きと語る子供たちをどう見たか、黒衣のハンターは冷やかな表情を崩さず、 「貴族の力に救われたな」  と言った。  二つの未来ある生命を守り抜いたのは、その意図の有無にはかかわらず、貴族の製造した二台の馬車であった。 「そうだよねえ。やっぱ、凄え科学力だよなあ。昔、生まれた村へ『都』から学者さんが来て、貴族の文明を破壊するばかりじゃ勿体ない、利用しようって演説してったけど、本当にそう思うよ」  頭の柔軟な弟の感想を、姉の言葉が打ち消した。 「おめでたいのもいい加減にしなさいよ。大体、こんな惨状をつくり出したあの雲も、貴族がこしらえたんじゃないの」 「そりゃそうだけどさ」 「父さんと母さんの仇よ」 「わかってるよ。けどさあ」 「何よ!?」  歯を剥く姉がよほど怖いのか、弟は口をつぐんだ。 「この調子だと、先の宿場も全滅ね」  ぽつりと言った言葉が姉弟を現実に戻した。  二人の視線が、ひっそりと立つ娘に集中した。 「お姉ちゃん、誰だい?」  とヒュウが訊いた。 「はじめまして。タキと覚えておいて。手品師の助手よ」 「げっ——じゃ、お姉ちゃんも手品ができるのかい?」 「少し、ね」 「やった。道中が少しは楽しくなるぜ。おいら、ヒュウ」 「馬鹿ね。宿場は滅茶苦茶よ。——あ、あたし、姉のメイっていいます。よろしく」  と和やかに挨拶を交わしているところへ、 「雲が戻ってくる様子も異変もなさそうだ。馬車へ戻れ」  とDが指示した。  引き返す四人の前に、小さな馬車は敢然とそびえ立ち、それを耳にした上でのDの指示か、遠くから逃げ去ったサイボーグ馬の蹄の音が近づいてきた。  案の定、幹線道路と交差する駅舎は塵と化していた。  ここ数百キロにわたって、点在する村も同じ運命であろう。 「次の『都」行きは明日の昼だ。——ここで待て」  Dの言葉に、姉と弟は顔を見合わせた。 「だって——駅舎の武器も避難所もないんだよ。妖物が来たら一発でやられちゃうよ」 「武器は置いていく」 「次の村まで連れてってくれません? そこで降ります」  とメイも頼んだ。 「おれたちと来るより、ここにいた方が安全だ。妖物はすべて焼き殺されている。一週間は何ひとつ発生しまい」  これは実に正しい判断だが、子供にはわからない。夜の闇の力は、言葉による保証よりも遥かに現実的なのであった。  ——乗せていったらどうだ? 「余計な口をきくな」  ——私とミスカの欲望を案じているのなら、柩から出なくともよいのだ。そう誓おう 「貴族の血への渇望は、おまえたちにはわからん」  Dはにべもなく応じた。  ——どうしてだ? 「飢えたことがあるのか?」  小さな爆発のような間のあき具合だった。 「人間の血を吸いたいと、壁に爪を立てたことがあるか。堪え切れずに自分の腕に食らいついたことがあるか。——飢えとはそういうものだ」  Dの声は子供たちには聞こえない。それなのに、二人の眼は美しいハンターの顔に吸いついていた。  ——君にはあるのか、Dよ?  男爵の声が訊いた。 「飢えの渇望に勝利した貴族はいない。挑んだものもすべてしくじった」  とDは答えた。  吸血貴族たちの中にも、人間の生き血を奪う行為をおぞましいと感じ、何とか忌棄しようと努力するものたちもいた。西暦八〇〇〇年代に現れた“退廃者”グーリッツは、吸血行為のおぞましさについて五〇〇冊もの著書を残し、自らもそれを中断すべく、あらゆる手段を我が身に施したが、そのすべては失敗に終わり、ついに自説撤回に至ったのである。著作は火に投ぜられた。  たとえば、飢えた貴族を脱出不可能な空間へ幽閉しておくとどうなるか。  不老不死の生命は決して餓死を許さず、究極的な空腹以外の機能障害も少なく、狂いもせぬ正常な頭脳で飢えに苛まれる羽目になる。——いわゆる貴族の「戦闘期」には、おびただしい貴族たちが敵味方に分かれて争ったが、勝者が捕虜たちに科した最も苛酷な刑罰はこれ[#「これ」に傍点]であった。  数百年、地下の大重力牢獄に閉じこめられたまま、飢えだけが進行していく無残さは想像に難くない。  停戦条約が結ばれ、測り知れないほど深い地底から解放されたとき、彼らはいっせいに救出者にとびかかり、その血を吸ったという。 「業は落とせん。貴族が貴族である限りはな。人間が家畜の生命を奪うのと同じだ。そして、人も人を食らう」  この美しい若者は、一体何年を生き、何を見てきたのか。恐るべき内容を淡々と語る横顔はひたすら冷厳であった。——いつもの通りに。  ——確かに私はそんな飢えを知らぬ  と柩の声は言った。  ——だが、この馬車に乗っている限り、飢える恐れはないのだ。その子たちに手は出さんよ 「そうしてくださいな」  とタキも後押しした。この娘は貴族の威光が絶えて久しい土地から来たものか。 「こんな荒野に年端もいかない子供を置いてくなんて、妖物の餌食になれといってるようなものよ。きっと、後で後悔するわ」  ——何を言っても無駄よ  全員が白い馬車の方を向いた。嘲笑に近い声はみなの耳に届いたのである。  ——その男が恐れているのは、私や男爵どのではない。自分よ。人間の子供たちよ、知っておるか。おまえたちが何より頼りにしている男がダンピールだということを。私たちと同じ血を持ちながら、おまえたちに加担し、私たちを狩る裏切り者だということを  姉と弟がどんな表情をしたか、Dもタキも見ることはできなかった。  晴れ渡った空が一瞬のうちに暗天と化したのである。  今度は通常の稲妻が走り、ふり仰ぐDの顔を風が打った。この一帯は平原部でも比較的天候の変化が激しい。  ごおごおと砂塵が渦巻く中を、しかし、ミスカの声は勝ち誇ったように流れた。  ——Dよ、本気で私と男爵どのの口づけを恐れておるか。いいや、おまえが危惧しているのは、実は己れ自身の飢えなのではないか。その子供たちは、いつもおまえとともにおる。体臭は匂うぞ。その中に、甘い血の匂いを嗅ぎつけたりはせんか? おまえの中の貴族の血が、そのとき、|滾《たぎ》りはせぬか? 「乗れ」  とDは二人に告げた。天地は蒼茫とかすんでいる。雨が降り出したのだ。風の音は大地を打つ雨音と変わり、Dを除く三人が両手で頭を押さえた。凄まじい打撃力である。さすがに、この環境へ置き去りにするのは酷と、非情なハンターの|精神《こころ》も動かされたものか。  タキはすぐ歩き出そうとしたが、二人は動かなかった。  Dを見上げる顔は雨に煙っていた。  どんな表情か、やはり、わからなかった。  一同が|内側《なか》に入るや、馬車は猛烈なスピードで走り出した。御者台にすわったDの操縦による。  窓からのぞいていたタキが、頬を固くして、 「道を外れてくわ!」  と叫んだ。  姉弟も顔を押しつける。まるでガスでもたちこめたような雨足だが、行く先に丘陵らしい黒い塊が盛り上がっているのは、何とか見分けられた。 「ど、どうしたんだろ!?」  少年が青い柩へ眼をやったのを見て、姉が肩をこづいた。 「何か訳があるのよ、あの男性のやることだもの」  タキの言葉は、高さ一〇メートルほどの、決してゆるやかではない斜面を一気に駆け昇った瞬間にわかった。  雨音とは別の、地鳴りみたいな重低音が、街道の右手からやって来た。 「洪水だ!?」  同じ水なのに、それは灰色の小山のように見えた。  近くに水を湛えた湖沼でもあったのか、あるいは水妖の力によるものか、押し寄せる水は街道をかき消し、廃滅の荒野さえためらいなく呑みこんだ。  水は丘まで来た。  ずる、と馬車が後退する。内部の三人が悲鳴を上げたのは、そればかりではなかった。柩の蓋が開いたのである。  立ち上がった人影が男爵とわかっていても、寝床から現れる貴族を目撃した恐怖は、人間の本能と化している。 「そう騒ぐな」  渋い声を残して、マントが深い海原のように翻った。  身をこわばらせた三人が眼をしばたたいたとき、青い姿はなく、ドアだけが大量の雨|飛沫《しぶき》を取りこんで閉じた。  Dは隣にやってくる気配を察していた。男爵が腰を下ろすや、 「何しに来た?」  と訊いた。 「流されては困る。この水流は強いし、また遅れるのは敵わない」 「なら、|内部《なか》にいろ。——陽は高いぞ」 「幸い、水は車輪の半分だ。誰かが後方で支えれば滑りはしまい」 「名案だな」 「ここは雇い主と使用人の関係を思い出してもらいたい」  男爵は微笑した。  Dは無言で濁流へ身を躍らせた。  強烈な流れに逆らわず白馬車の後ろへ廻り、足場を確保してから、馬車を肩で固定する。  後退は止まった。  男爵が鞭をふるった。  馬は丘の頂へと前進を再開した。  水が去ったのは、二時間を経てからであった。  御者台の下へやってきたDを、 「よくやった」  と男爵が賞讃した。 「お互い様だ」  とDは頭上を仰いで言った。 「早く柩へ戻れ。そんなところで倒れられては厄介だ」  雨はなお降りつづいているが、日中である。貴族たる男爵にとっては、D以上に苛酷な——全身が焼け爛れ、そのくせ悪寒が走るという状態であるはずだ。  現に、青い姿はよろめいた。  淡い光がDの瞳に宿った。  北の空が白んでいる。雲間からのぞく黄金の光であった。  ステップにかけた手を、 「いいのだ」  と男爵が止めた。 「朝の光とはどんなものなのか——滅多にないチャンスだ……」  声は力なくつぶれた。  Dは御者台に跳ね上がり、青い身体を抱き上げると、馬車の内部へ運びこんだ。  柩に収めるや、蓋は自然に閉じた。  きょとんとしている三人を尻目に、 「見たか?」  と訊いた。  ——いや  苦しげな声が応じた。  Dがそれきり無言で出ていっても、三つの顔は、みるみる収まってきた雨足と、それを追うかのようにさしめぐんできた黄金の光の中で、釈然としない表情を湛えていた。 [#改ページ] 第六章 辺境の手妻師    1  丘を下りて一時間が経った。  妖雲と洪水に叩きのめされた土地は、行程の半ばで視界から消え、一行が前方の青い山に吸いこまれるまで、三時間とかかるまい。  危機を脱したとはいえない。辺境の旅は平原も山岳部も魔の巣窟なのだ。それでもなお、人間の常で、とりあえずの平安を迎えた馬車の内部には、安堵の気が満ちていた。  最も陽気なのは、言うまでもなく、少年——ヒュウである。 「ねえ、お姉ちゃん、どっから来たんだい?」  と訊かれて、タキは眼を細めた。記憶を辿り、じきに、 「わからないわ」  と答えた。 「え?」  と眼を丸くしたのはメイである。 「おかしいな、わからない。——いいえ、考えたこともなかったわ」 「なんだよ、それ? 今まで何をやってたのさ?」 「手妻師の助手よ。|街道魔術師《トレイル・マジシャン》ヨハン卿っていうの」 「知らねえなあ。——お姉ちゃん、どうして逃げ出してきたの?」  姉が目配せしたが、弟は気がつかない。ねえ、ねえと押して、タキを苦笑させた。 「師匠が困った人でね。私を後継ぎにしようとしたの」 「へえ。いいじゃん、魔術師なんて」 「真っ当に稼いでいるひとならね」 「え? じゃあ、サギ師なのかい?」 「そうね。なにしろ魔術師だから。人の財布を拝借して偽物を入れておくなんて、簡単にやれるのよ。——でも、私にはできなかった」 「そらそうだ。悪ィ奴だねえ」  少年の眼は義憤に燃えた。 「それで逃げてきたのか。無理もないや。早いとこ、そいつとの距離を離しといた方がいいねえ」 「でも、心配なのよ、お姉さんは」 「どうしてさ?」 「師匠は怖い人なのよ。きっと追いかけてくるわ。このままでいたら、絶対にみんなに迷惑がかかる」 「はっはっは」  と少年は胸を張った。 「安心、安心。あのお兄ちゃんがいるじゃあないか」 「ヒュウ!?」  と眼尻を吊り上げる姉へ、 「なんだよ、本当じゃないか。あの兄ちゃん、見た目ややることは冷たいけど、本当は案外、親切だよ。おいらにゃわかるんだ。困ってる人や苦しんでる人間を見捨てていける|性質《たち》じゃないよ」 「そんなこと言ってるんじゃないわ。あの人——でダンピールなのよ。貴族の血が混じってるんだわ」  姉が身を震わせたのも無理はない。 「だからどうだってんだよ。半分は人間じゃないか」 「半分は貴族よ。だからこそ、あんなにきれいで強いのよ。絶対、貴族の血の方が強いんだから」 「だったら、どうなんだよ?」 「絶対、いつか、あたしたちに牙を剥くわよ」 「バーカ」 「あんたこそ、馬鹿よ。大体、あの人が半分貴族だと知って、怖くないの、怖く?」  言ってから、姉は口をつぐんだ。何とも言えない表情が弟の顔に浮かんだ。浮かばせたことを後悔せずにはいられない表情であった。 「怖くなんかあるかい!!」  と少年は高い声を上げた。自分の|精神《こころ》に反発するかのように。  きっと口を結んだその顔に暗いものがさした。  影である。  流れたそれを追うように、少年は反対側——ドアについた窓の外へ眼をやった。  御者台を降りて馬上のDも見た。  複葉の巨鳥であった。  二枚の翼には二基ずつの大出力エンジンを備え、三〇〇人もの乗客を乗せて飛ぶ。貴族が使用していた反重力や磁気場応用のものと、人類が独自に開発した分があるが、これは、その持つ不格好さから見て明らかに後者だ。  五、六〇年前から『都』と『辺境』をつなぐ航空路が完成し、営業飛行も開始されはしたものの、飛行体の製造が追いつかず、現行機はすでに老朽化が叫ばれて久しかった。馬車の左方を滑空していく飛行体が、どう見ても地上へ近づいていくのはそのせいであろうか。 「落ちるぞ!」  と叫んだのはヒュウである。  平原を選んだのは、パイロットの最後の努力だったかも知れない。スピードがありすぎた。  布張りの巨体はやや下に傾いた形で、まず下方の左翼を地面に接触させた。あっけなく付け根から折れた。胴にはめこむ形ではなく、一枚ずつ熔接してあるためだ。  上左翼が後を追い、これも天空高く舞い上がると、機体はどういう物理法則に従ってか左へ回転した。前進の慣性は残っているから、二方向の力が作用して不可解な方角へ跳ね上がり、大地を打ち鳴らしつつ斜め左方の森へ吸いこまれた。  地響きが消えても、Dは馬車を止めなかった。 「お兄ちゃん——止めてくれ!」  窓から身を乗り出して、ヒューが絶叫した。 「飛行体が落ちたよ。ほら、煙が上がってる。爆発する前に助けにいかなくちゃ!」 「近くに村がある」  とDは冷やかに応じた。 「すぐに救助隊が駆けつけるだろう。先を急ぐぞ」 「冗談だろ。何人も乗ってるんだよ。死にかかってるかも知んない。助けにいかなくちゃ。えーい、兄ちゃんが面倒なら、おいらが行く。止めてくれ、この意気地なし!」  Dがそちらを向く前に扉が開いた。 「ヒュウ!」 「およしなさい!」  二人の女の声に、むしろ押されるみたいに小さな身体が飛び出し、鮮やかな受け身をとって地上に降り立つや、 「先に行ってておくれ。おいら、救助隊を待ってるよ!」  誰に叫んだものか、これだけ言い残し、一目散に黒い森の方へと駆け去っていった。 「ヒュウ!」  後を追おうとするメイを、タキが抱きとめた。 「離して。あたしも行く。ヒュウ、待って。——離してよ、離してったら」  血を吐くような姉の声を耳にしながら、Dは平手で馬の尻を叩いた。  ヒュウが機体の見えるところまで近づいても、爆発は起きなかった。燃料不足で不時着したのかな、と思った。  機体はぼろぼろだ。食料として分解されかかった妖物に似ている。  |外皮布《がいひふ》は吹き流しみたいに裂け、砕けた骨組みが本物の骨みたいに四方へ飛び出している。  動くものの気配はなかった。 「早いとこ助け出さないと。火が廻ったらことだぜ」  肉の焼ける臭いを嗅いで、肉食の妖物どもが集まってきたらどんな地獄が展開するか、少年といえども心得ている。  投げ出された連中はいないかどうかを確かめながら、ヒューは機体に接近した。  いちばん手近の裂け目から内部をのぞく。 「うげ」  声は自然に出た。  外からは見えなかったが、機内は死体の山であった。  ほとんどはベルト着用の姿勢で前のめりになり、内臓破裂で死亡したものと思われた。 「誰か——生きてる人はいませんかあ?」  確かめる前に、ヒュウは叫んでいた。返事はない。  念のため、と機内へ足を踏み入れたのは、やはり、勇気のある子供だからだ。  いちばん手近の死体に近づき、肩に手をあててゆすった。 「ん?」  奇妙な手応えが伝わってきた。 「わお!?」  愕然と立ちすくむヒュウの周りで、凄惨な光景は一変したのである。  彼は外にいた。  機体はちゃんと眼の前にある。ただし、全長一メートルにも満たぬ複葉飛行体の|模型《ミニチュア》のみが。 「これ……一体……」  少年は恐る恐る取り上げ、ずたずたになった布切れをめくった。馬車に戻りたかった。  模型の内側は、ヒュウが見た通りだった。乗客は全員、前のめりに伏している。一センチ足らずの人型の針金が。布製のシートと針金人形を結んでいるのは、細い木綿糸であった。 「おいらが見たのは——これかよ?」 「ご名答」  陽気な声が少年を飛び上がらせた。  ふり向いた眼の前で、黒いシルクハットに燕尾服姿の老人が微笑していた。 「お、小父さん——ヨハン卿!?」  反射的に出た言葉に、老人はほう、と大仰に眼を丸くしてみせた。 「タキが話したかね? お初にお目にかかる」  仰々しく一礼して、右手を差し出す。いかにも人なつっこい雰囲気に、ヒュウは細長い顔と手を見くらべつつ、同じ手を差し出した。 「なぜ、こんなことをしたかわかるかね?」  とヨハン卿は訊いた。  ヒュウの手を握った右手は、子供相手と承知のやわらかさであった。 「おいら——」 「我輩は、別の人間に来てほしかったのだよ。いいや、正確には人間とはいえんな。——ダンピールに」 「Dの兄ちゃんのことかい!?」 「そうだ、そうだとも」 「来ないよ、兄ちゃんは来ない」 「その通りだ。飛行体が落ちれば、並の人間なら救助に駆けつける。——どうやら、我輩はまだ人を見る眼がなさそうだ。さすがに手強い」  ヒュウは手を離そうとしたが、ぴくりとも動かなかった。やわらかな力はそのままだ。 「だが、我輩は幸運だったよ。少なくともひとりは、他人の不幸を見捨ててはおけない人間がやって来たのだからな。せっかく来てくれたのだ。ゆっくりしていきたまえ」 「やだ、離せ!」  ヒュウは不意に一歩前進した。ヨハン卿の拳の中で、小さな手首がこく、と前へこねられ、次の瞬間、関節を外した手首はあっさりと魔術師の指の呪縛を逃れていた。 「おっ、この——」  とのびてきた手から、一転、二転——鮮やかなバック転を見せて、少年は跳び離れている。 「やっぱり、おまえ悪党だな。今すぐ、Dのお兄ちゃんに知らせてやるよ」  叫んで、もと来た方向へと走り出した身体が、いきなり鈍い音をたてて跳ね返った。 「うーん」  と顔を押さえた手の間から鮮血が迸り、少年は足をもつれさせつつ地べたへ仰向けに倒れた。  その通り道——確かに街道への疾走を邪魔するものが何もなかった空間に、忽然と出現した岩棚を愉しげに見つめて、 「手妻の極意——それは、眼に見えるものだけに、注意を集中させること」  とヨハン卿は片手で自慢のどじょう髭を優雅にひねくりながら、講釈をものした。    2  次の宿場に着くまでは二時間かかった。  治安官事務所の前で馬車を止め、扉を開けたDに、メイの憎悪の眼差しが向けられたのはいうまでもない。 「あたし、探しに行く」  断固として言い放つ少女へ、 「日が暮れる」  とだけDは言って、その小柄な身体を凍りつかせた。辺境で生きる者にとって、太陽の運行は生死を分かつといってもいい。暁は生命を与え、夕暮れは死を招くのだ。 「それじゃあ、ヒュウはどうなるの?」  Dはちら、と馬車の方を見た。  いつの間にか開いた扉のかたわらに、青い影が立っていた。深い海原の色は辺境を染めていく夕暮れに、まことふさわしかった。 「——行きたまえ。と言っても、君は夜の私たちを信じてはいなかったな。私が同行してもいいが、それではミスカが残る。私から見ても様子がおかしい。君は彼女を見てくれ」 「じゃあ」  あんぐりと口を開けたのは、メイに付き添っていたタキである。 「——弟は私が探してこよう」  男爵は静かに言った。  これがいかに驚天動地の発言であったかは、半狂乱のメイまでが口をあんぐりさせ、Dでさえ、眉をひそめたことでわかる。 「ほう」  ともうひとりが洩らし、ワンテンポ遅れたタキが、はっと周囲を見廻したが、声の主と思しい人物はどこにも見えなかった。声は嗄れていた。  男爵はDに向かって、 「約定はたがえん。安心しろ」  と言った。 「いいだろう」  Dもあっさりと認めた。 「駄目よ、駄目だったら!」  異を唱えたのはメイである。 「貴族になんか行かせちゃ駄目。ヒュウが血を吸われる」 「何だって!?」  治安官事務所のドアが開いているのは気づいていたが、リベット|銃《ガン》を手にした当人が出てくるところだとは、誰も予想できなかった。  通りに並んだ一同を見て、とんでもない侵入者と理解するや、 「おい、カルコ、杭打ち銃だ!」  とリベット銃を放り出して叫んだ。  助手がとび出し、銃身の下に太い|杭弾倉《ステイク・マガジン》のついたライフルを手渡すと、さっさと屋内へ逃げこんだ。 「この根性なし!」  と怒鳴りつけて、ライフルを構えた赤鬼そっくりの顔は、隠せぬ脅えの色を別にすれば、確かに根性だけはありそうだった。 「この二人を届けにきただけだ。すぐに出て行く。それから、馬車で二時間ほどの西の平原に、大型の飛行機が墜ちた。救助に行くがいい」  とDは言ったが、これがまずかった。治安官の眼には、白い馬車の扉を開けて出てきたばかりのミスカが映ったのだ。  そのかたわらにはバラージュ男爵がいた。二人[#「二人」に傍点]とは誰か、治安官が判断を誤ったのも無理はない。  肩づけするなり、|引金《トリガー》を引いた。  杭打ち銃は強力なスプリングを使用するため、威力の発揮は近距離を旨とする。杭の瞬間速度は〇・七マッハ。——鬼神でも防ぎようがない。  二筋の光は天から放たれたもののようにまばゆかった。  杭は三つに断たれて空中へ乱れとび、二筋の光のうち一方は、Dの長剣へと姿を変えて、治安官の喉元に突きつけられていた。  すでに死人の色に変わった治安官の耳元で、 「一切、構うな。この娘たちを置いて出て行く」  とDがささやいたとき、赤鬼の顔が上気したのは何故か。 「わかった」  と汗まみれの顔がうなずいた。 「だが、女たちを置いていくのはあきらめろ。見ろ、町じゅうの連中が見ている。おれが守ろうとしても、貴族と一緒に旅をしていたというだけで、八つ裂きにされるぞ」  Dはすぐにうなずいた。 「わかった。連れて行こう。だが、一切、おかしな真似はさせるな」  治安官の歯はがちがちと鳴っていたが、声だけはまともに出せた。 「約束する。誰も貴族の奴隷にゃなりたくねえ」  Dが離れると同時に治安官はへたりこみ、黒衣のハンターは男爵の姿が消えていることを知った。 「行ったの」  と彼以外には聞こえぬ低い声が言った。 「だが、あ奴、やはり大したものだ。貴族の仲間から見れば人間びいきの軟弱者だが、いまの杭を打ち落とした技——おまえより速かったぞ」  男爵が墜落現場へ辿り着いたのは、一時間後であった。  夜とはいえ、馬車が三時間かかった距離を三分の一の時間で踏破するとは、単なる貴族の健脚というにはすぎるものがある。  もちろん、誰もいない。飛行体の破片すらもない。 「幻か。——誰が仕掛けた」  その場で男爵は見破った。  それから彼は、飛行体が落ちたと思しい一角を丹念に調べはじめた。ここへ駆けつけたときから、ヒュウが見つかると思っていたわけではない。町へ向かわない以上、どこかに身を隠しているか、殺られたか。——どちらにせよ、痕跡ぐらいは残っているはずだ。利発な子供だという意識が男爵にはあった。  数分で男爵の動きは止まった。何を見つけたのか、そこは確かにヒュウが——  凄絶な鬼気が、夜目にも青いマントを包んだ。特殊な眼の持ち主には、燃え上がる鬼火と見えたにちがいない。  ぴゅっ、と空気が鳴った。  ふり向く暇もなく、男爵の背から胸へ黒い鋼が抜けたのである。  彼はよろめき、どっと仰向けに倒れた。  貫いた武器は短槍というべきであったろう。長さは六〇センチほどで、約半分が平べったい槍穂であった。  しかし、一体、誰が!?  即死したとしか思えない男爵の鳩尾に、このとき、もう一本の槍が鈍い音をたてて突き刺さった。男爵はぴくりとも動かない。  それから数十秒——鳥の声ひとつ聴こえない闇の奥に、ぽっとひとつの人影が湧いた。黒衣の男である。月光に照らし出された顔は、そのせいでもあるまいが、ひどく青白く見えた。 「いよいよ、おれの番が来た。しかし、こう簡単にいくとは思わなかったぞ」  およそ生気のない声でつぶやき、生気のない足取りで近づいてきた。  その姿が男爵から三メートルの地点に達したとき、青い姿は電光の速さで身を起こし、胸の短槍を投げた。  空気を灼いて襲った槍は、狙いたがわず男の心臓をまっすぐに貫き、彼は棒立ちになった。 「ほう、まだ生きているか」  起き上がった男爵は、腹の槍を抜き、大股で男に近づいた。 「私を一瞬なりと驚かせた男。名前をきいておこう」  と言った。黒衣の胸に染みはない。なんと彼は必殺の短槍を腋の下にはさみこんでいたのである。 「フシア」  声と同時に、奇妙な匂いが空気中にたちこめた。そのとき、奇妙なことが起こった。正しくは、ちっとも奇妙ではないのだが、大いに奇妙な行為がなされたのである。  男爵がふらりと男——フシアの首に歯を立て、血を吸ったではないか。貴族としては少しもおかしなところのない、しかし、到底いま、こんなところで起きそうにない出来事であった。  数秒——そして夜空に苦鳴が迸った。 「く……この血は……酸だな……」  喉に手をあてて後じさる男爵の口から白煙が立ち昇り、その唇も口腔も舌も焼け爛れた。  心臓を貫かれた敵はにんまりと笑った。 「その通り。それも、ニンニクのエキスをたっぷりと炊きこんである。最初の匂いな、あれは吸血鬼だけを引きつけるために、やっと合成した薬品だ。おまえは血を吸いたくてたまらなくなり、滅びへの道を選んだのだ」 「……なぜ……死なん?」  男爵の口は声と——血を吐いた。酸は内臓を侵食しはじめていたのだ。 「名を名乗れと言ったろうが。おれの名前はフシア。不死身のフシだ。槍ごときで死にはせん。だからこそ、体内で毒素を合成できるのだ」 「これは面白いことをきいた」  こう言いざま、男爵は足もとに血塊を吐いた。驚愕のフシアに向けた顔は、同じくらい青ざめていたが、遥かに生気をみなぎらせていた。 「馬鹿な——ニンニクの精が効かなかったのか?」 「いや、効いた。だが、状況がかんばしくなかったな。私はいま怒り狂っている。毒素の効き目より遥かに強くな」  闇の中に、炎のような光点が二つ浮かんでいた。男爵の眼であった。 「許さん。おまえも不死と謳うなら、私の攻撃すべてを無効としろ」  青いマントの内側から飴色の光が若者へとのびた。  かわす暇もなく、彼の首は胴体から離れ、夜空に舞い上がった。同時に、その切り口から七彩の煙が垂直に噴き上げ、月光を隠した。  今度こそ堪らず、フシアの胴がもんどり打ってすぐ、男爵もその場へ片膝をついた。毒煙は効果を発揮していたのだ。  だが、それも束の間、男爵はよろめきながらも身を起こした。毒煙の効果を考えた場合、同じ貴族でも驚倒しかねない体力と精神力といえた。 「何処へ行った?」  と男爵はつぶやいた。無論、ヒュウのことだ。 「血の香りが残る。何があった?」  そこは確かに、少年が見えざる岩に激突し、倒れた地点だったのである。大地に染みついた血臭を、数時間も後に嗅ぎつけたのは貴族の超能力だが、男爵の憤怒を誘い、フシアの攻撃を退けたものは、行方を絶った少年の運命であった。 「必ず探し出す。たとえ、遺体でも」  男爵の姿が闇に消えてからほどなく、フシアの首の消えた方角で、生気に乏しい虚ろな声が妖々ときこえた。 「さすがは仲間から殺しを依頼される貴族——一筋繩ではいかないな。もっともな、なかなか死ねないのは、こちらも同じだが——」  三人の女とDは、町外れの森で野営の準備を整えた。  宿場町の灯はすべて消え、夜鳴く鳥の声さえも聴こえてこない。  タキに慰められて、メイはようやく落ち着きを取り戻したものの、時折、Dを見る眼差しには、拭い難い哀しみと怒りの色があった。木の枝を集めた焚き火の炎が、顔を照らしている。  少し離れた青い馬車にもたれながら、Dは前方の闇を見つめていた。唇は動きもしないが、会話がないわけではなかった。 「——かなり、いづらい雰囲気じゃな」  と左手のあたりで、嗄れた声が揶揄するように言った。 「仕事をやり遂げるというのも、これでかなり辛いものがあるな。子供が気にならぬでもあるまいし、まして——」  声を断ち切ったのはDの声であった。 「何処へ行く?」  白い馬車の扉が開いて、地上へ降り立った影に向けたものである。 「私の勝手。——といっても、通らないでしょうね。散歩といえば、許しが出るかしら」  ミスカはそっぽを向いた。右手にかなり大きな|函《はこ》を下げている。ちりばめた宝石が月光にきらめいた。 「宿場へは近づくな」 「わかっているわ」  白いドレスは月光の下を森の奥へと遠ざかっていった。 「あちらに人家はなし。ただの散歩じゃろうて。なんせ、奴らにとって、今は真昼じゃ。それよりも、ひとつ、気になることがある」 「わかっている」  とDも応じた。 「あの武器庫の奴——あまりにも簡単にやられすぎた。どう考えても。つくった貴族さえ恐れた化物とは思えん」  Dの反応はなかった。  ミスカの歩みは一〇分ほど歩いたところで止まった。  森の真ん中である。  枝の上や木陰に妖しい影や真紅の眼が光ってはいるが、まるで森の精みたいな白い女には近づいてもこない。いかに美しかろうと貴族だとわかるのだ。  ミスカが足を止めたところは、円形の広場だった。偶然でできたものではない。あちこちの地面に石造りの像らしいものが顔を出しているところを見ても、太古の祭祀場か何かのようであった。  その真ん中に立ち、ミスカは天を仰いだ。深く息を吸うと、清浄な夜気と夜咲く花の香りが流れこんできた。 「いい晩だこと」  白いドレスの女は、手にした函を足元に下ろし、そっと蓋を開いた。  両手をさしのべ、取り出したものは、一枚の黄金のディスクであった。函はプレーヤーだったのだ。  何千年か前の品としか思えない旧型の円盤を、ミスカは切なげな眼差しで見つめ、プレーヤーにセットした。  黄金の表面に打ちこまれた五万ミクロンの記憶粒子が活性化するまでの三秒が、この女貴族にとって最も哀切な時間であった。  ざわめきがミスカを取り囲んだ。もの哀しいバイオリンの調べが耳を打つ。ワルツの伴奏はどうしていつもこうなのだろうか。鼻孔に慎ましい香水の香りがいっぱいに広がり、いつの間にか閉じていた瞼を、ミスカは自然に開いていた。 「よお」  と片手を上げたのは、クロロック男爵だ。鶴のように痩せてはいるが、その鋭い爪は、装甲獣さえ一撃で即死させられるし、中世人間学に関して、彼の右に出る|碩学《せきがく》はいない。  その後ろでは、ミルカーラとアダムのカルンスタイン夫妻が談笑中だ。|白鳥《スワン》型イオン・シップでの成層圏旅行から帰ってきたばかりらしい。あと五〇〇年ほどしたら、二人の柩を地球の周回軌道に乗せて過ごしたいと話している。  幾つもの人影が優雅にミスカの上を滑っていった。舞踏会はもうはじまっているのだ。  白いドレスと黒の燕尾服が軽やかに輪を描き、青い照明がふりまかれ、水晶のテーブルに盛られた花々がホールを吹く風にゆれている。  ハンサムな若者がミスカの前に立ち、一礼した。確かツォレルン家の子息だ。すっきりとのびた鼻梁がミスカの気に入った。  指の絡ませ方も、ステップの踏み具合も申し分なかった。後は甘いワルツの調べと青い光。  遠くで誰か女の声が。  どうして私たちは影が映らないの? グラスだって、大理石の柱だって、馬車だって地上に影が落ちるのに、私たちはどうして?  酔っているんだよ、と別の声がなだめた。  それこそが貴族の証しだ、ともうひとつの声が主張している。  青い光の中で。  いつ果てるとも知れぬ夜の人々の舞。  時のうつろいの外に生き、青春を知らず、滅びもまた知らずに。  ふと、ミスカはふり向いた。足早にプレーヤーに近づき、左手をかざして旧式のアンタッチ・スイッチを切る。  ざわめきは消えた。  ホールも消えた。人々も消えた。  夜の森の広場に、ミスカはひとりで立っていた。  いや、左方の繁みの前に、三つの影が立っている。  Dと二人の娘と。 「何の用?」  とミスカは静かに訊いた。鳩尾のあたりから、熱い塊がこみ上げてくる。怒りなのかどうか、自分でもわからなかった。人間たちに見られてはならない。だから、ここへ来たのに。  Dは答えない。 「このお兄さんに誘われたの」  と言ったのは、メイだった。 「どういうつもり? 私が昔の夢を見に来たとわかって追ってきたの?」  ミスカに危険な兆候があれば、Dは娘たちを同行させはしまい。 「プレーヤーを見た」  とDが答えた。  ミスカは眉をひそめ、それから高々と笑った。 「冗談はおよしなさい。これは私の祖父が神祖から拝領したかけがえのない品よ。おまえごときにわかるはずがない——」  声はしぼみ、瞳がみるみる限界まで開かれた。  凄まじいショックが脳天を一撃したのと同じ状態で、ミスカは美しいハンターを見つめた。 「本当に、このプレーヤーか。——通称を申してみよ!」  ミスカの視界には、Dの他に二人の娘たちも映っていた。その眼差しが。  それは同情と——理解ではなかったか。だが、ミスカの激昂を誘ったのもそれ[#「それ」に傍点]であった。 「答えよ。神祖の御品の名を!」  自らも理解不能の狂乱は、真紅の唇から二本の牙をのぞかせた。  Dが二人の肩に手を置いた。  ふり向いた三人に、もうひと声浴びせようとしたとき—— 「シンアイだ」  と嗄れた声がミスカの叫びを止めさせた。  正解であった。 「シンアイ……」  とミスカは口の中で、その言葉を転がした。薬のように苦く、水菓子のように甘く。  木立の向こうに消える寸前、小さな娘がこちらをふり向くのを、ミスカは白昼のもとのように見ることができた。  さっきの眼差しであった。 「シンアイ——馬鹿なことを」  女貴族は嫌悪をこめて吐き捨てた。  それは遠い昔に滅びたある国の文字で、親愛と書くのだった。    3 「やっと行ったか」  と木がささやいたのは、地上二〇メートルもの闇の中であった。  木の頂に近い大枝の上に、闇にまぎれて二つの影が立っていたのである。 「しかし、ここから見ているだけで、皮膚が総毛立ってくる。よくも、あいつと戦って無事に戻ってこれたものだ」  マリオである。 「ああ、おれにもやっとわかったよ。あの貴族をとっ捕まえるのに邪魔ならついでにと思ったが、ふう、下りてく気にもなれなかった」  茶のマントの裾で額の汗を拭ったのは、紅はこべとDに呼ばれた男である。  その口ぶりからすると、ミスカを拉致すべく、その大枝の上に潜んだらしいが、どうやってここまでやってきたものか。  彼らは実は先廻りしたのである。  あの大湿地帯でヒチョウが斃される以前に、彼らはヒチョウが持っていた飛行具を使って湿地帯を渡り、彼の帰りを待ち受けた。しかるに、到着したのはDたちであった。  仲間の死に憤り、しかし、怪人たちは不気味な笑みを交わし合った。少なくとも、ヒチョウひとりに報酬を奪われる危険は去ったのである。  Dの恐るべき力量を知り、その場での一斉攻撃も控えた彼らは、Dたちの出発を見送った。そのコースを予知し、先廻りするためだ。  タロスの武器庫へ一行が入るのを確認したときは、これで終わりかと舌打ちしたが、全員無事であらわれるのを目撃し、強敵に対する恐れはさらに強まった。行き当たりばったりに攻撃しても無駄だ、と骨身に沁みたのでる。  貴族とDを斃すには、ただ周到綿密な計画と迅速かつ精確な攻撃あるのみ。——こう結論し、そのための時間を稼ぐべく、刺客たちは早急に次の宿場へと急いだ。Dたちが遭遇した妖霊や大洪水に巻きこまれずに済んだのは、このためであった。  代わりに、彼らはDたちの到着が遅れることにも気づかず、ついに、次の攻撃当番たる青白い若者が痺れを切らして偵察に出た。彼は街道を行ったが、Dが選んだのは剣呑ではあるが距離的に近い裏街道であった。タキとメイを町で降ろすためである。  旅篭にいた残り三名は、当然、Dたちの来訪を知った。  彼らが何処に泊まるか、これまでの旅程から想像はついている。かくて、紅はこべとマリオは大木の樹上から、野営する一行を観察していたのだった。  準備は整えてある。男爵がもと来た道を戻ったことで予定は狂ったが、Dと女貴族を斃すことはできそうだ。  ところが、本来、次の攻撃者たる僧形の老人——ヨプツが忽然と消えて、またも予定が狂った。そればかりか監視をつづける間も|惻々《そくそく》と身に迫るDの鬼気の凄まじさよ。  彼らは寒気を覚え、ヨプツの留守に抜け駆けしてはまずいと言い訳して、監視者に徹しようとした。  そこへ、貴族の女が森の奥へとDのもとを離れた。好機到来と後を尾けたものの、すぐにDたちも現れ、女貴族への攻撃は二の足を踏むかと思われた。  だが、すぐにDは去った。 「やるか?」 「もちろんだ」  二人の会話はつづいた。 「だが、ヨプツが怒るぞ。順を乱したと言ってな」  と紅はこべ。 「女貴族は余計者だ。誰がどうしようと、最初から契約には入っていないぜ。Dとやり合うくらいなら、なんぼかましさ。それに、次におれたちの番が廻ってきたとき、Dと青い貴族を片づけやすくする人質になる」  ああ、この二人は貴族の女を拉致しようというのか。  二人の遥か眼の下で、ミスカはひとり茫然と立ち尽くしている。 「では、かかろう。Dに気づかれる前にやらねばならん」  マリオはこう言って、枝の上に胡座をかいて眼を閉じた。  何を念じているのか、その姿は宇宙の真理を一心に解明しようと試みる修行僧のごとく荘厳なものに見えた。  ミスカの周囲に黒い影が湧いたのは、それから一秒とたたぬ間であった。  もちろん、マリオの操る人形たちである。通常は彼らに気を取られている隙に、本物のマリオが襲いかかって敵を斃す。  だが、影たちが近づいても、ミスカは茫と立ち尽くしたきり、見ようともしない。  遠い樹上で舌打ちが起こったが、むろん、ミスカに届くはずもない。  次の瞬間、月光の中を霧のような塊が舞い降りてきた。  ミスカの頭上からすっぽりと白い姿を覆ったそれは、間違いなく不可視に近い細糸をより合わせた一枚の網であった。  ひと呼吸の間も置かず、ミスカは吊り上げられていた。  紅はこべは枝まで吊り上げたミスカを蓑虫みたいに固定し、 「声は出ないだろうな?」  とマリオに念を押した。 「うむ」  とうなずいた人形師は、すでに瞑想状態を解いている。 「おれの人形を操る糸で編んだ網だ。包んだ瞬間に獲物の全身に食い入り、呼吸もさせん。女は失神しているはずだ」 「相手は貴族だぞ」 「すべて承知の上だ」  と自信満々で言い放ち、しかし、ふと眉をひそめて、 「しかし、正直なところ、あまりにも簡単に行きすぎた。この女——おれの人形にも驚かなかったぞ」  その動揺を衝いて網を放つのが二人の計画であった。首尾は上々だ。しかし、どこか腑に落ちないところがある。 「この女——バラージュの情婦とみた。こいつを人質に男爵をおびき出すのはたやすい。貴族の名誉とやらにかけて、奴は進んで罠に入るだろう」  マリオが見下ろして笑った。 「だが、こうやって見ると、えらい別嬪だなあ。——おい、貴族の味見をしたことがあるか?」  仰天したのは紅はこべである。 「おい——まさか!?」 「どうせ失神してる。それに、網を外す必要はねえ。腰から下だけ自由になっても、何もできやしねえさ」 「おれはやめておくぞ」 「ああ、そうしな。だが、そばで見られてちゃ、仕事がしにくい。どっかへ行っててくれ」 「悪いことは言わない。やめろ」 「邪魔すんなよ、おい」  束の間、樹上で二人の刺客はにらみ合った。  先にそっぽを向いたのは紅はこべであった。 「勝手にしろ。じゃあ、おれは先に行く。呼ぶなよ」  次の瞬間、その姿は垂直に枝を下って、下方の闇に呑みこまれた。 「けっ、意気地なしめ」  と悪態をつき、マリオはミスカを引き上げると、その肢体に右手の爪をのばしかけ——息を呑んだ。  月光を浴びた網は霧のように妖しく光り、それに包まれたミスカの肢体は、マリオの言葉通り、全身を不可視の糸に縛られて、右の肩と乳房は半ば剥き出しになり、ドレスの左側は大きくめくれて、これも白い生々しい腿が付け根近くまで露出している。何よりも苦痛に歪むその表情の悩ましさ。  こんな月夜に、こんな森の奥でしか人目にさらすのを許されぬ、禁断の彫刻そのものであった。  赤く濡れた唇がOの字に開いて、かすかな喘ぎを洩らすのを目にし、耳にした途端、マリオは理性のかけらも失った。  爪をふるうと糸はあっさりと切断され、白い太腿はねっとりと枝の上に広がった。 「貴族の血に人間の血が混じったらどうなる? ——え?」  細い両足首を掴んで、人形師は大きくかき開いた。  そこで何が起こったか、月のみが知っている。  Dがきいたのは、天空に大穴が開いたような爆発音であった。  跳ね起きた娘たちに、 「馬車に入れ」  と命じ、扉を閉めるや、彼は風を巻いて疾走を開始した。  あの広場に到着して、頭上を見上げる必要はなかった。  広場の真ん中にはミスカが立っていたのである。マリオの姿はなかった。 「何があった?」  と訊いた。Dの五感は、地上にも天空にも何ら変化がないことを伝えている。風に乱れがあるが、それだけだ。あの爆発音からして、信じ難い静けさであった。 「——何も」  ミスカはつぶやき、その場に倒れ伏した。  見下ろすDの顔を月の光が青白く照らし出した。  限りなく厳しい表情は、彼ですらこの異変を危惧していると告げていた。    『D—蒼白き堕天使1』完 [#改ページ] あとがき  しかし、こう未完つづきの“D”も珍しい。  まず、初出が『グリフォン』'94年春号。一挙掲載のはずが、半分の一五〇枚でちょん。こらいかんと、 「三〇〇枚は書き足して出します」  こう約束した。計算していただければわかるが、一冊で終わらせるつもりだったのである。敵方の何人かが、いともあっさりとやられるのはそのためだ。  ところが、突如として私はスランプに襲われてしまい、まるっきり筆が進まなくなった。前回の「薔薇姫」の一日三〇枚が夢のよう。一日一枚という日も——実はなかったが、三、四枚はあった。六月発売がひと月延び、ついに七月。また延びるだろうと思っていたら、 「何がなんでも出しますよお」  と担当I氏の絶叫。  なら、仕方がない。締め切りまでに終わらない本を出す以上、待っているのは「二巻への道」である。  OKはあっさり出た。かくて読者のみなさんがお読みの“D”ができあがったのである。作者としては、 「もう一巻あるからね」  と言うしかない。 「エイリアン魔神国」の事件[#「事件」に傍点]を憶い出し、 「むむ」  と身構える人々もいるだろう。ご安心下さい。ちゃんと出ます。作者の保証ほど確かなものはない。  唯一の問題は、作者がDたちの道行きに何が待っているか、想像もつかないことだ。  なにしろ、吸血鬼ハンターに、吸血鬼二人が道連れなのである。おまけに、普通の人間が三人もついている。虎と羊と虎の調教師が一緒に旅しているようなもので、どんなに物騒なグループかは想像に難くない。  正直、作者も困惑しているのである。  ペンをとったときは、いいアイディアだと思ったのだが、進むにつれていやはや。まあ、その辺のところは読んでいただければ——といいたいところだが、ご安心下さい。作者の苦しみなど、読者には絶対わからない。Dもバラージュ男爵もミスカ嬢も、タキもメイもヒュウも、みな生き生きとしている。  人間は貴族の何を理解し、貴族は人間から何を見出すか。——なかなか面白そうな旅であり、私も実は大いに期待しているのだ。  突然、話は変わるが、ある友人のつて[#「つて」に傍点]で、ニューヨークに面白いスチル屋を見つけ、取引することになった。  その筋ではよく知られた店らしいが、日本ではもちろん無名。従って、獲物は大いに期待できるわけだ。  早速、カタログを入手。——ところが、新聞サイズのこれが何と五、六〇ページもあって、全ページにびっしりと、それこそケシ粒サイズの活字でタイトルとその内容が並んでいるときた。  内容と言っても、たとえば、 「クリストファー・リイがこっちを向いて牙を剥いている」  くらいで、どんなスチルかは想像もつかない。  きちんと読んで、欲しいものだけチェックすればいいのだが、眼が痛くなる上にかなり忍耐力が必要。おまけに仕事の合間にこれをやっていると、平気で半年くらいはかかってしまいそうだ、冗談ではなく。  それでも最初の一週間くらいは地道に努力をつづけていたのだが、そんなもの長つづきするわけがない。ある日の午後、私は、 「ぎゃあ」  と叫び、欲しい映画のスチル・ナンバーすべてに赤マルをつけていった。  しかし、これでOKとはいかない。注文書にナンバーすべてを書き写さなければならないのだ。他人になどまかせられないから、自分でやるしかない。毎日毎日、 「“DRACULA”の165 167 168 169……“THE MUMMY”の95 96 97……」  とペンを走らせるのは、いやあ、辛かったですね。日本一のSF・ホラー映画のスチル持ち作家になってやる、という夢がなかったら、まず不可能だったろう。  カード取引もOKというので、サインとナンバーを添付して送り、約半月後、来ました来ました。  ボール紙の分厚い梱包に一五〇枚ぐらいずつひとまとめで、連日、二、三個が我が家へ届きはじめたのである。  いやあ、早い。会社のオーナーはグルーチョ・マルクスか、葉巻くわえて髭を生やしたスティーブン・キングかといった風体のおっさんだが、仕事は丁寧かつ迅速である。まあ、中には向こうのミスでダブっている品も何枚かあるが、何しろ量が膨大だから仕方あるまい。  けーっけっけっけ。  いや、白黒スチルの美しいこと。海外の映画雑誌や研究書でお馴染みのスチルが、眼の前にぱあと広がっている様は、壮観のひとことにつきる。  W・オブライエンとR・ハリーハウゼンが特撮を担当した「|動物の世界《ANIMAL WORLD》」('55)の恐竜スチルなんか凄いよお。「コッポラのドラキュラ」もあるよお。かくて私は本当に仕事も手につかなくなってしまい、担当者各位に迷惑ばかりをおかけする羽目になってしまったのである。  友人のカメラマン氏に頼んで保管手段の確保も進んでいるが、これでもまだ、リストの半分——どころか三分の一にも達していないのだ。  まとめて買わないのは、金額の問題もあるが、さすがにおっかなくなってしまったからで、ま、いずれはやる。  なにせ、その店から別便で、 「当店に入ったことのないユニバーサル・ホラーのスチルが百枚入荷したゾ」  などと書き送ってくるのだ。  私はいま、幸福である。  しかし、そこは現品も見ずに勘で行う取引、当然、困ったことも起こるのであった。  その辺は次回——第二巻待ちである。  本文ともどもお愉しみ、お愉しみ。  平成六年六月某日   「HOUSE OF DRACULA(未公開)」を観ながら    菊地秀行